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逃げ場所はあらかじめ作っておく

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しんどい時ってのは色々な表現で言い換えられる状況。例えば追い詰められた時、何となく疲れた時、やる気が出なくなった時、絶望感を覚えた時、もやもやとした不安感があった時、モチベーションが落ちて何も手に付けられなくなった時、鬱を覚えた時。ともあれ、日々の生活に何かストッパーがかかった時、という感じかな。

で、そのような時に無理やりいつも通りのことをしようとすると、ますます自分を追い詰めてしまうことになってしまいかねない。多分にそのような状況は、自分の中のエンジンが摩耗していたりエンジンオイルが切れていたりする。

そんな時にはブレーキをかけて一休み。気分転換をするしかない。その場に立ち止まっても環境を変えることはできないので、別の環境に足を運んでみるのが一番......ではあるのだけど。

前のめりでいつも突き進んでいる人は、そういう状況を考えたことがあまり無いので、当然そのような逃げ場所的環境など持っていない。すると「社長、いいところありまっせ」的に、怪しげな声をかけてくるひどい人がいる。そして食い物にされてしまう。今件ではそういう事例は多々あるので、あらかじめ自分の退避場所を作っておきましょうというお話で、まったく同意しかない。鉄道なら待避線みたいなもの。


実際に病を体験した人の多くから似たような話を見聞きする一方で、まだまだ若い時分では「そんなの関係ねーじゃん」的にしか思えない、基礎体力問題。まぁ、まだ学生時代とかは随分と無茶ができるし、会社入社位までは徹夜なんてばりばりオッケーみたいな感じだけど、もう少し後になってくると「徹夜がきつくなってきたなー」とか「筋肉痛が翌々日にやってくる」的な話が出て、基礎体力の問題が自分自身のものとしてのしかかってくる。

元々若い時には勝手に満ちあふれてくるエネルギーが自動的に問題部分を補完してくれるから気にならないのだけど、それがだんだん減ってきて、無茶をするとそのダメージが影響を及ぼすようになってくる感じ。この辺が入院などをして体の管理と向き合うようになると、よく分かるようになる。

厄年というと男性は25歳と42歳と61歳、女性は19歳と33歳と37歳。元々厄年ってのは病気などでトラブルを引き起こしやすい年だから、何か祟られているに違いないという経験則で生み出された知恵との話もあるので、厄年で気が付く云々ってのは発想としては悪くない。ただこれって平均寿命が短い時の話で、今ではもう少し別のものになるのだろう。面倒だから10歳単位で考えればいいのかな。

ともあれ、体力とか筋力...というか身体の健康維持と構築ってのは、将来に向けた貯金みたいなものだと思えばいい。年金は支払いをすると将来受け取れる権利を得られるだけで、自分自身の積み立てでは無いけど、健康は間違いなく自分自身。自分の健康を鍛えて他人を支えるってのは無いから。


例の白血病を自己申告した選手の話で色々と病症に絡んだ話が出てきているけど、その中で個人によって病症の実情は実際に診察してその結果を見てみないと分からないし、見た以上その医療従事者は守秘義務が発生するので第三者への言及は不可能だから、本人が語っていない情報についてあれこれ言うのは全部空振り三振な内容でしかないし、本人にとってもノイズにしかならないという指摘があった。まぁ、一般論として云々ってのならともかく、そうでない場合はまさにその通り。

で、今件も似たような話で色々なアドバイスはあるけど、他人に語れない、語っていない部分でのあれこれがあるから、それに抵触したりむしろ問題になってしまうってことは多々あるので、色々と脳内ツッコミをするのはいいけれど、本人に直接アドバイスをするのはヤメレ、というもの。

ただこの類の話で生じるアドバイスって得てして善意からのものなんだよね。あなたのためを思って助言してあげたのに、という逆切れが多分。アレルギーの子供に無理やりアレルゲンな食品を食べさせた時の理由説明が非常に好例だけど。「子供だから食べたいに決まっている」「ちょっとならいいでしょ、食べたがってるのだから」「少しなら大丈夫、慣れさせていけば」。悪意の無い悪業ほどたちの悪いものは無い。正義の信念で成される行為はリミッターが外れるのでたちが悪い。


意識調査とか世論調査の類はその方法が正当性のある公明正大なものであれば、現状において多数の人がどのような考えを抱いているかの把握には役立つけれど、事実を解明することには何もつながらない。意識や世論は多分にマスコミが誘導できてしまうし、情報が不確かな時には大衆意識は揺らぎやすい。そもそも事実は調査の結果で覆ったり動いたりするわけでは無い。そんなことが可能なら、松本サリン事件はどういう結末になったのか。

この類の、何か事案が発生した、提起された時の意識調査の類は世論の動向を推し量ることには役立つかもしれないけど、それ以上の価値も意義も無い。事実を左右することはない。にもかかわらず、世論調査でこうなったから事実はこうなんだ的な論調が多くて頭が頭痛で胃腸が胃痛。この類の調査って結局、地震があった直後に地震は怖いですかととか、インターネット利用者にインターネットを使っていますかと尋ねるぐらいの意味しかない。

電卓による日常生活の数量化

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数字の概念的なものは元々人間の存在以前からあったもので、それを人の知恵によって定量的なものとして明確に概念化し、取り扱いができるようにしたことによって、人は格段に利便性を得ることが出来るようになり、進化が可能となった。数というものの考え方の認識とか、その取扱いとかは、知的な考えをする上では必要不可欠なものとなる。

で、それほど大げさなことを考える必要は無いのだけど、電卓があると色々と数量化できて気付きを得られるよ、という話。関数電卓にぶち込んでおいて答え一発でもいいけど、それはそれで面倒だから単なる電卓でいいかなという豆知識。

割ったり掛けたりしてるだけじゃん、と言われればそれまでなんだけど、それだけのことで普段の数字が別の意味を持ってくる。自分により身近な存在となる。何となく、もやっとした数字が、リアルなものとして自分に降りて来る。


例えばアレルギーの問題のように量が問題じゃない、あるかないかが問題なんだってのも存在はしているのだけど、今件のような話が多分であるという実例を端的に表した好例。醤油は日常茶飯事的に調理に用いるものだけど、それを一気に数リットルも飲んだらぽっくり逝ってしまう。けれど放射線量などの話になると、それが通用しなくなる。なんでだろう。

まだその件について「アレルギーと同じで、ほんのちょっぴりでもダメなんだ」と主張してくれるのならマシなんだけど。そしたら量に関する反応の問題を提示して突っ込めるから......と思ったけど、それをやるとお気持ちヤクザが登場するんだよな。


今件ではイージスアショアの件が挙げられているけど、専門分野に関してスットコな専門家が意見を騙る、もとい語るのはまた別の問題として、専門外の人、つまり門外漢がスットコな理屈やら「常識」を訳知り顔でさも正かのように語るのはどうなんだろうという話。

これが例えば個人のブログとかソーシャルメディアでなら、さほど大きな問題にはならない。言論の自由云々ってのがあるから。ただ、公知力が大きい者の語りは教祖の信者に向けた神託や啓示的なものになりうるので、相応の注意が必要になる(特にメディアや芸能関係の人は、この辺りのセンスが絶望的だけど)。

で、今件のような話がブログなどではなく、テレビやラジオ、新聞のような公共のインフラを通して語られるってのは大きな問題。取得ハードルは低いし、さらにはそれが事実であるように伝えられてしまう。

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