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二つの「報道自由度ランキング」

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日本語への翻訳の仕方で微妙にタイトルが変わってくるのだけど、いわゆる「報道の自由度ランキング」なるものはおおよそ2つのものが存在する。一つは国境なき記者団が発表しているもので、日本でも数年前までは事実上これが唯一無比のものとして伝えられていた。そしてもう一つはNGOフリーダム・ハウスによるもの。これは実際にはずっと前から展開されていたのだけど、日本ではほんの数年前からようやく周知されるようになった。

で、ここ一両日、この「報道の自由度ランキング」が騒ぎネタとして挙がってきたので調べてみたら、例の某新聞社の某記者がお騒ぎネタとして使ったという話。もう実態は色々と暴露されているのに、なぜそれを使いまわすのかなという気はする。正体がバレたフェイクの竹光で真剣勝負に挑んでいるような。

日本でなぜ国境なき記者団のランキングばかりが取り上げられ、使われていたかというと、そのランキングを生成する構成員が「その方面」の方々で占められていることに加え、その方が報道界隈にとっても都合がよいからなのだろう......ってこれは毎年この時期になると説明している話ではある。内輪ネタを対外的なものとして、叩きたい相手を叩くための棍棒に使っているようなモノ。特定のゲームメーカーが「今年売れたゲームソフトベストテン」ってことで、ゲーム業界全体のランキングのように披露しながら、実のところ自社ソフトばかりを挙げているような感じ。


ファッションなどでの色の業界って、来年はこういう色が流行るということで決定って形で決めて、その指針に従って有力なブランドとかが動いて、結局それがトレンドになるという話を聞いたことがある。要は勢力の多分を握るところが内輪で世の中の流れを決め、利用者の趣向を誘導するというもの。

今の報道って多分にそれと同じ仕組みになっていないかな、という感を覚えた次第。情報の発信元を握っているから、マスの根元をコントロールできるから、そこから流れる情報の方向性や傾向をそれなりに操作することができる。同じバケツから食材を取り出すにしても、自分の好きな食材だけをえりすぐって取り出し、それで料理を作ってしまう。嫌いなもの、気に入らないものは手に取ってもバケツに戻してしまう。あるいはそもそも手を付けない。モリカケでの「自分達が重要じゃないと思ったから報じなかった」という話が象徴的だよね。


先日も某朝日新聞記者が狼藉を働いて、その身許が腕に巻いていた腕章で明らかになった件をちらほらと見ていて。あのような挙動を成す記者か良い例ではあるけど、報道機関の人達って自分達が持つ肩書、腕章はそれをまさに体現化したものだけど、を天下御免の免罪符とか、水戸黄門に出てくる葵の御門とか、陛下の勅書的なものと自認しているのかもしれないな、と思ったりする。


個人ベースでのジャーナリストは別にするとしても、一部報道機関、特に新聞社やそれに類する媒体の記者だけでなく経営陣やトップ層にいたるまで、ソーシャルメディアでアカウントを作って発言をしている。それだけなら別にいいのだけど、自分の立場や肩書を明確にして利用しつつ、トンデモ発言やら妄言やら扇動やら暴言を相次ぎ成し、それを組織側も止める気はほとんど無いというのが実情。

こういう状況が続けば、それに目を通している、読んでいる人達はどのような思いを抱くだろうか。そこら辺まで理解した上での現状なのだろうか。あるいはそのような発言が広報全伝活動の上でプラスになるという認識での話なのだろうか。理解していないとしても、理解した上でのものだとしても、いずれにせよ事態は絶望的。あるいはそういうものを求めている層に、自分の組織のメディアを購買して欲しいということなのかもしれない。だとしたらもっともっと絶望的なのだけど。

もっとも実のところ、そういう中の人達の乱雑な行動が、新聞そのものの購読者数とか購買率に大きな影響をおよぼす時期はすでに過ぎてしまっているのかもしれないというのが率直な感想。

韓国の李洛淵首相の秘書室長を務める鄭雲鉉氏は14日、自らのフェイスブックに投稿し、「最近、韓日両国は(元徴用工らの訴訟で日本企業に賠償を命じた)最高裁判決を契機に関係がぎくしゃくしている」と述べ、「きちんと決着をつけなかった歴史はよみがえり、議論の的になりがちだ」と指摘した。また、「(関係改善は)両国の努力、中でも特に日本の努力が増せば、可能だと思う」と主張した。 

「大人げない」というフレーズがベストマッチなほどの韓国の対応ぶりに、日本もそろそろ大人の対応をすべきではないかな、と考える人も多いであろうこの頃。でも、だからこそ、スピーカーの役割を果たす報道は、極力正しい、誤解釈をされないような表現を心掛ける必要がある。最近ではGoogle翻訳の精度も上がって来たし、適当な、読み手の意図を誘導しそうな内容でも、ダウトである、フェイクだというのがバレてしまうことが多くなってきた。先日の米大統領のサンクチュアリにかかわる話における「報復」とかね。

で、今件もそのような問題がよく分かる事例。NHKも時事通信も、本文では「両国の努力、中でも特に日本の努力が増せば」と書いてあるのに、タイトルでは「日本の努力必要」としている。100対50とゼロ対50とではまったく別物だろうに。文字数の制限云々なら「日韓の努力必要」で事が済むはずなのに、なんでこうも対韓感情をあおるような表記をするのだろうか。これぞまさにフェイクニュースでは無いのか。


明文化された厳格なルールが無いと、判断する側の思惑で好き勝手な断罪が可能となってしまう。法律が多分に明文化する必要があるってのはまさにそれが理由。不文律にしておかないと世の中ががちがちになってしまうって面もあるけど、不文律で思惑ファーストにすると、独善的な悪弊が支配してしまうことになる。

で、今のマスコミ界隈ってまさにそのような状態に陥っているのではというのが正直な感想。自分達の思惑を絶対正義と断じ、その思惑に当てはまらないもの、気に食わないもの、敵対すると自身で判断しているものを反復して大声で騒いで世論を誘導させ、叩かせる空気を作る。そうでないものには黙っていたりさり気に流して世間の関心をスルーさせる。その采配はマスコミの好き嫌いや都合で左右していく。

あるいは逆で、気に食わない対象にはとことん細かいことも繰り返し騒いで問題視させ、気付きを与えるとか世間の注目感心に合わせてと大義名分をふりかざすけど、同じようなことを気に食わない対象以外がやっても、おだんまり。行動指針というか選択基準は結局事象そのものでは無く、対象で決めるんだね、的な。

これって独裁政治とか恐怖政治とどれほどの違いがあるのだろう。


具体的なツイートは引用しないけど某事案でマスコミの取材陣による悪辣な姿勢が写真などによって暴露されたり、某タレントの薬害事案で色々と過剰な取材とか偏見の強い「報道」があったりしているのを見て。それらの行為がずっと行われているわけじゃないという反論があるのも併せて考えると、確かにその通りではあるのだけど、けれどそのような切り貼り印象付けを常に...

...というとまたファクトチェック侍が来ちゃうから往々にして、行っているのがそのマスコミだよな、という感を覚えたりする。その手法を第三者の個人が用いてマスコミに向けて放っても、それは結局自業自得というか、天唾が戻って来たまでの話ではないかなという感はある。

そして力の観点ではまだまだ差異はあるけど、概念とか仕様とかという観点で、情報の改変が生じている現在では、マスコミの定義とか、区分って誰がどのようにして決めて、それは誰が裏付けをするのかなと考えたりもする。まぁ、力の差異でマスコミ、報道であるのか否かってことを決めてしまうと、発行部数数千部の地方紙はどうなんだとか、地域FMラジオ局はとか、そもそも力の差異でそれを決めていいのかってことになるけどね。

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