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インターネットが情報の価値を大きく変えた理由はいくつかあるけど、その要素として重要なのが「距離感を無くした」「蓄積が容易になった」「時系列を超えて検索と精査が可能になった」がある。巨大な図書の棚を背景にニヤリとほほ笑む研究者のようなことをしなくても、過去の情報をたどることを容易にさせてくれた。もちろん情報の統括、検索、精査にはそれなりの知識と経験とノウハウが必要なのだけど、かつてのような財力も場所も時間も記憶力も要らず、ハードルは思いっきり下がっている。

かつてのような、情報がつかみどころのないような、ふわふわとした感じで、それっぽいイメージ的なものを覚えている程度で時間が流れていく環境は、すでに無いと言っても良い。


タイトルですべてを物語っている感はあるのだけど。いわゆるそば事案(森友・加計)でこれまで以上に大きな憂慮を抱き、また明らかになったのは、報道メディアの類が社会的に求められている責務を果たしていないという現状。

人が介在している以上、生成物にはそれなりの独断や偏見が混じってしまう。単に方程式に基づいた単純流れ作業ではないので、独自色や色合いが反映されるのは仕方がない。しかしながら現状が、それらによって生じる誤差・許容できる領域をはるかに超えてしまっているのではないだろうかと思わざるを得ない。あるいは元々こんな感じで、それが確認できるようになっただけなのかもしれないけど。

報道の 正体見せる ツイッター

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実のところ報道にたずさわるジャーナリストも社会的露出度が高いのはごく一部の人で、さらに露出されているのはその一部分、本人が見せたいと思っている部分だけで、政治家や芸能人のスクープのように見せるつもりが無かった部分までは出ていないから、実質的には見せていないのとあまり変わらない。

弁護士は当方も以前は神的な存在で語りはすべて事実であり素晴らしい存在で、敬うべき存在の一つとしての認識しかなかったけど、今では肩書として弁護士ってのがあるだけで、中身を担保するものでは無いのだな、というぐらいでしかない。ジャーナリストも然り。権威とか肩書の価値観がグンと下がってしまった。オーラを放つ勲章が、子供がチラシで作ったぺらぺらのものだったぐらいの、位置づけの暴落ぶり。

各方面の学者も似たようなものかなあ。何か世の中で色々と騒ぎがあるに連れ、その方面の専門家を語る人が出てくるけど、その肩書のイメージにあった言及をなさる場合はさほど多くない。むしろ逆だったりする。こんな時に「震災以降特に」という言い回しを使うことも多いけど、それは同時にスマホやソーシャルメディアの普及浸透で、語り手側の発言ハードルが下がって、それこそ居酒屋で酔っぱらいがくだまいているぐらいの感覚で、不特定多数に言葉を放つことができるようになったところが大きいと思う。

掲示板とかブログとかウェブサイトもインターネットを用いた意思発信・疎通ツールではあるけど、意思表現のハードルという点ではツイッターの低さが一番な気がする。だからこそ、皆が地を表してしまうのだろう。仮面の内側を披露してしまうのだろう。

「風評被害については、(追加の安全対策などの)情報を徹底して公開していく。私自らが先頭に立ち、払拭する」と意気込んだ。

元々何の問題もなかった豊洲市場に色々な風評をばらまき、風評被害を起こした現都知事による、小池市場問題(記事では豊洲問題とあるけど、先日の【「豊洲市場問題」と固有名詞の使い方による風評被害】にある通り、問題のない市場の名前を使うこと自体が風評被害に加担しうるので、このように表記している)。自ら起こした被害を、その加害に関しては何の言及もせず、まるで他人がやったか天災によるものであるかのように語り、それに立ち向かう姿勢を見せて「わたくし、カコイイ」をアピール。ネットスラングでいうところのおまゆう以外の何物でもなく。

最初、どこかのネタ話か、あるいはフェイクニュースの類かと思い、ソースを探したらさくりと見つかったので、朝からアゴがスコーンと外れて痛いのなんのって。

そういやここでは出てないけど、ちょいと前まで「安全だけど安心ではない」という、治世者の役割を無視した発言もしていたけど、先日は「安全も安心も取り戻す」といった形で、いつの間にか安全も無かったことになっている。


先日の「あの日見た札束の金額を僕達はまだ知らない」事案。新聞社をはじめとする各報道機関のファクトチェックは一向に入らないどころか、自らが積極的に印象操作を繰り返しているのを見るに、報道の品質劣化もここに極まれりという感は否めない。

その「札束」報道に絡んで、「」(鍵カッコ)をつけることでウソでもネタでも問題のある表記でも、好きなようにタイトルや本文に利用できるし、それを繰り返すことで印象を操る事ができる、というよりはそのような思惑で書いている感が強い感を覚えた。本人がそういったんだから、それを書いただけ。いかに怪しいように見えても、本人の言及を記しただけだから何の問題も無い。発信側の思惑に合致した内容をそのままべた写しに記して、それが事実であるかのように伝えるのは、以前指摘もした「専門家と呼ばれる人たちに語らせて、あるいはインタビューをして、報道機関側の主張を不特定多数に周知させる、あるいは多人数の意見であるかのように思わせる」っていう誘導の手法に等しい。

「」をつければ何をしても良いってのは、先日のテロ等準備罪における「共謀罪」で顕著だったよね。「いわゆる」的な意味合いだというニュアンスで、実際タイトルで「共謀罪」と書いて本文でも「『テロ等準備罪』いわゆる『共謀罪』」と表記したのもあったけど。あるいはその前の、安保法改正案における「戦争法」かな。


例のそば事案のうちの後ろの方の加計事案。今や内情は報道・文科省事案な気がするのだけど。そのやり取りや報じられ方を見るに、指摘されている話を頷きまくって首が居たくなるほど。ちなみに後半部分は「公文書」に絡んだ半ば覚え書き。そこにある文書が本当に指摘されていた時点で存在したか否かと、その文書に書かれてある事が事実であったのか否かは別の話。その簡単なロジックをふっ飛ばして、今の報道界隈は暴走している感は強い。書かれてあることがすべて事実となるなんて、そんなドラえもんの秘密道具じゃあるまいし。


ここ数日持ち上がっているお話として。同じ「ような」調査でも新聞社によって大きく違いが出るというもの。もっとも挙げられている話自身は「新聞社毎に同じような調査」ではなく、「1調査機関が購読新聞毎に回答者を仕切り分けした上で集計した」もので、問題はないのだけど(サンプルの取り方とか母数の方での問題はありそうな気がする)。

確かに似たような対象、事案に関わる調査を行うっても、新聞社によって調査結果にばらつきが出るってのは良くある話。同じ事案に関わる調査でも調査機関によってぶれが生じるのは毎度の話ではあるけど、統計的な誤差を超えているのは否めない。


戦中の「大本営発表」は昨今では「一次ソース、特に権力側が事実に色々と都合の良い情報を盛りこんで虚言を垂れ流す」という意味合いで語られている。しかしながら大元は、一次ソースの直による発表という意味合いでしかない。戦争後半になってくると色々と厭戦気分を出さないために歪曲した情報も流していたけど(そのうち少なからずは現場部隊の情報の収集、戦果報告そのものに問題があった事も合わせ記しておく)。

で、昨今の報道界隈の「分かりやすいかもしれないけど正しくない、歪曲している」ってのは、むしろ報道自身が「大本営発表」と化してしまっているのではないかな、という感はある。報道内容をトリガーとして、一次ソースに当たらないと本当の意味が分からない、曲解した内容を習得してしまう。まるで2ちゃんねるのまとめサイト的な立場でしかない。

蛇口をひねっても水ではなくて泥水や墨汁、海水が出てくるような水道は要らない。欲しいのは真水。


報道機関とは公正で中立な立場から正しい情報を分かりやすく、素早く大勢の人に伝えることを社会的責務としており、それが可能なだけのツールとノウハウを持っている。だからこそ、その社会全体の便益を維持するためにさまざまな特権や例外を認められている。社会的責務を果たすことこそが存在意義なわけだ。お仕事をしたから対価をいただけるというような、ごく当たり前の関係。

で、今の報道機関はその社会的責務を果たしているのか否か。与えられている特権の濫用が進み、責務がどんどんないがしろになっている感は強い。そし社会的責務を果たしていないのならば、存在意義は無い。

無論人が携わる以上、色々な考えによる影響が生じるから、軸のぶれが生じることはある。しかしそのぶれが、許容できる、意図せず生じてしまう領域を超えていないと誰が主張できようか。


米国で流行ったこともあり「フェイクニュース」「ファクトチェック」がひとしきり日本のメディアでもバズワードとなったけど、それを使う側がフェイクニュースを日常茶飯事的に流しており、ファクトチェックを受けなければならない方が他人を精査すると棍棒振り回し状態となったものだから、あっという間に言葉の権威が失墜し、胡散臭いものとなってしまった。

そして今度は「ポスト真実」。次なるもの、次世代という意味でのポストを頭につけることで、「客観的事実より、感情的な訴えかけの方が世論形成に大きく影響する状況」(【コトバンク】)を意味しているとのことだけど。要は報道側が語っていることが信じてもらえなくなったので、こっちを向いてよいうこと聞いてよ誘導されてよ、という主張をさも正しい事であるかのように言語化した部分が多分にある。「ポスト真実」を検索すると、胡散臭ささく裂な評論家や知識人がそれらしく語っているのが良い裏付け(中身も胡散臭い。「自分達のいうことが聞いてもらえなくなったのはおかしい」的な。まるで【「物言えぬ社会」って「RTやいいねしてもらえない」ってことだよね】のようでもある)。

で、指摘の通り、「ポスト真実」云々をいうのなら、まずは偏向しない事実を語る方が先ではないかな、と。「真実」と「事実」とは別物なので、本来は「Post-truth」ってのは「ポスト真実」ではなく「ポスト事実」と訳さねばならないのだよね。「ポスト真実」と訳して用いている時点で、思惑が見えてしまっている。事実関係などどうでもよい、偏向して偏見や思惑がもりもり詰まった「真実」を信じなさい、それが上手くいかない現状は「ポスト真実」で、それは良くない状況だよ、と。何それ酷い。

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