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そういやテレビやマンガに出てくるお見合いのシーンって、趣味を聞かれると大抵は「読書」とか「音楽鑑賞」とか当たり障りのないものが口から出てくるけど、あれってタクシーや床屋での会話と同じで、あまり親しくない人と会話のキャッチボールをする際に投げるボールとしては適切なんだなあという感を、今件から覚えた次第。さすがに趣味趣向で床屋談義のように天気のことを語るわけにはいかないけれど。

この類の話で本当に相手の趣味を奥底まで知りたいってケースはほとんどない。あくまでもネタの一つに過ぎず、そこで深みにまで追求されても逆に困る、反応できない。だから「趣味は読書、音楽鑑賞、映画鑑賞」とか「インターネット」「ソーシャルメディア」といった、相手が知ってそうなネタでぼかしてしまうのが無難だと考える。まぁ、これが空気を読むということなのかもしれない。


インターネットを使う人がソーシャルメディアの普及浸透でけた違いに増えて、それと共に不特定多数への情報発信のハードルが思いっきり下がり、今までのメディア媒体、例えば新聞や雑誌、テレビなどが有していた特権の価値が薄らいでいく今日この頃。一方的に情報を垂れ流されるだけで、その内容に関して反論が(事実上)出来なかった時代は終わりを告げている......というかもう終わっている。

震災後に各電力会社が、「当時の」政府や自治体、メディアの流す情報に「それは違う」「でたらめだ」「意図的な誤認をしている」との意見表明をプレスリリースの形で出すことが頻繁に見かけるようになったけど、これもまだあまり知られていない。電力会社の情報発信をチェックする人はさほど多くないからね。恐らくは意見表明をされた側には届いていないのだろうし。

しかしながら最近ではどの媒体もソーシャルメディアを積極的に活用するようになったことで、今件のように直接、相手に向けて意見具申、反論を成すことができるようになった。この意義は極めて大きい。


あくまでも管理職であり、一般社員、あるいは経営判断を行う立場にある経営陣ではないけれど、つまり上と下から板挟みにあうレベルの人材として適切か否かの判断指針ではあるのだけど。軍隊で言えば小隊長とか中隊長レベルのお話。

中規模位までの人の頭に立つ人材の要素としては、結構的を射ている感じがする。経営的なセンスを足せば、十人から二十人ぐらいの中小企業のトップにも当てはまるかな。

列挙してみるといずれもうなづける内容ではあるのだけど、同時にこれらをすべて平均以上のレベルで有する人材ってのは、なかなか居ないような気もする。だからこそ、企業としてもそのような性質を持つ、少なくとも原石の人材は喉から手が出るほど欲しくなるってのは理解ができる。見方を変えれば、この8つの視点で自らの行動性向を鍛え上げていくことにより、自分を一端の人材に磨き上げることができる。


当方は幸いにも最近ではこの類の発言をされた記憶が無いのだけど、昔はちらほらあった気がする......けど明確な記憶としてでは無いので、恐らくは忘れてしまいたいようなものだったんだろうな、と。専門的な技術を持つ人が仕事の話をする際には、結構受けるタイプのセリフには違いない。

提示された条件をざっと勘案して、あるいはさらに専門的な精査をして、どう考えてもその条件では無理だという内容だった時。例えば日数が絶望的に足りていないとか、予算がけた違いとか、前提条件からして希望的観測がダース単位で盛り込まれているとか。先日の「予算が無いけど良い人材は欲しい」も同じような軸の話かな。

で、「ムリです」と素直に、誠実に回答するとこのような無茶な返しをしてくるケースは確かに存在する。専門職な人、プロの人は何でもできる、しかも自分が想定したような低コストでという、自分の思惑が世界を支配するルールであり、それに従わない現実は認めないというもの。あるいはごり押しすれば相手も妥協してくるだろうと考える、雑な交渉術の持ち主。

そのようなケースには指摘の通り、「そのプロが無理だと断じているのだから、それ以上の回答は無い」の返しで良いのだと思う。


「たかが数分ぐらい」「一人ぐらいいいでしょ」という、制限ラインの外にいるものの、その差異がわずかだった場合、駄々をこねて自分を例外扱いにしてほしいという心境はよく分かる。限定品購入のために並んでいたら、自分の前で「ここ以降は商品はありません」といわれたら、ものすごく悔しいもの。

でもそれはあくまでも、仕切られた側の発想。気持ちや感情云々で仕切りをゆるやかなものにしたり変更したのでは、その仕切りの意味が無くなってしまう。これは法の問題ではよくある話。感情論を前面に押し立てて例外を認めてくれ、との話は、決まりに対する冒とくですらある。

今件の病院の話はむしろ、誠実さが見受けられるので、良く無いどころかとても良いと判断しても良いぐらい。


認証欲求充足やビジネスのための勧誘ツールとして、コンテンツを盗用するソーシャルメディアアカウントは多数存在する。ツイッターが顕著ではあるけど、実のところFacebookでも多々見受けられるし、ブログにも山ほど確認できる。ツイッターの場合はハードルが低いので手掛ける人が多く、目立つまでの話。

特に動物系の動画や写真は、この類の盗用アカウントが多々見受けられる。ぱっと見ですぐに分かり、受けが良く、拡散されやすい、つまりはビジネスとして有益なアイテムのカテゴリだからに他ならない。

リツイートしている人は何気なく、深い考えも無くって場合が多分だろうけど、盗用された本人にとっては「泥棒されたものの方がウケられている」のはもちろんのこと「実情が理解されずに写真、動画だけが独り歩きしている」なんてことも少なくない。当方の記事でグラフだけが抽出されてその解釈が独り歩きしたり、奇妙な話の棍棒代わりにされているのと同じようなもので、やはり悲しいものがある。


話の元となった求人事案そのものは例として引用はしないけれど。明らかに高度な技術を持つ、特定の高い能力を持つ人でないとクリアできない条件の求人関して、それこそ「経験無い人でも問題ありません」的なアルバイトの対価ぐらいの報酬を提示して、しれっとしている事例が短期間に複数話題となっている。

冷静な視点で端から見れば「一けた違うよね」「それは米ドル表記ですか」とツッコミしたくなるような感もあるのだけど、恐らく当事者は「これで当然」か「これしか出せないんだもん」のいずれだろうと。

どちらにしても褒められるような話では無く、むしろ指摘されている通り怒るよりは鼻で笑って侮蔑するレベルの話じゃないかな。少々キツい表現だけど。モノを推し量る物差しを正しく使えていない、現状の認識が出来ずに自らの理論を振り回す、賭け事のように事態を認識している。どのような表現が適切だろうか。


学校のクラスは一種の共同体。その中では構成員はみんな押しなべて仲良くなる必要がある......というのが暗黙の了解だったり、さらにはあからさまに教師などが皆に教えたりする。確かに(弱い者)いじめをしたり、仲間外れを意図的に作ったり、誹謗中傷はするべきではないけど、それはクラスとか共同体とかいう枠組みとは別の、社会常識レベルの問題。

他方、クラスも社会の疑似的な存在である以上、どうしても嫌いな人とか、相性の良くない人の存在もありうる。そのような人にまで無理に仲良くしようとすると、かえって自分のストレスが溜まってしまう。自分自身をいじめているような感じになる。仲良くならないパターンは忌み嫌うという認識があるからこそ、「全員他の人と仲良くしましょう」と指導してしまいがちだけど、実のところ「好き」の反対は「嫌い」じゃなくて「無関心」。この発想が必要なんじゃないかな。

第一、クラスの中で皆が皆平等に仲良くってのは、実際にはあり得ない話だと思うのだけど......。


具体例は避けるけれど、いわゆる自称文化人や知識人、芸能人やジャーナリスト的な人たちによる炎上事案。世間一般的には非常識と受け止められても仕方が無いようなこと、実際に多分に非難を受けていることでも、その非難を正しく受け止めないどころか開き直ったり、謝罪をしたように見えても形だけで、すぐに同じような行動を繰り返す。場合によってはより状況が悪化してしまう。

当人には指摘や非難が耳に入っていない、自分は正しいことをしているのだからあの非難の声は大根が発しているようなものだ......と考えている、新興宗教の信者的な状態にあるのかなというのが、これまでの当方の見方だった。

今でもその考えは有しているのだけど、最近それに加えてもう一つ、要素としてありうるのかなと思い至ったのが、この子供や動物に叱責を行った時の反応事例。

子供にしても動物にしても、対象にかまってほしい、自分を見てほしい、認証欲求的な欲望がある時には、手っ取り早い手法としてヤンチャなことをする。叱られた時の心の痛み、さらには物理的ダメージよりも、「かまってくれた」「自分の存在を認識してくれた」との効用の方が大きければ、同じことを繰り返す。その方が自分にとっては益になるから。当然「してはいけない」と叱責している人の願いなど届くはずもない。


指摘されれば確かにその通り、当たり前の話でしかないのだけど、初心者はこの仕組みを知らないことも多いし、ある程度使いこなしている人でもついこの仕組みが記憶の引き出しの中にしまい込まれていて、忘れてしまっているケースが多々あったりする。あるいは知っていても使っちゃいけない、核兵器の発射ボタンのような認識をしているかもしれない。ちがうよ、そのボタンは食堂の自販機での総菜コロッケやちくわ注文ボタン位に気軽に押していいんだよ。

特に「リムーブ(フォロー解除)すると相手に気まずいので」云々ってのは、気が付いていない人も多いと思う。そうか、ミュートすればいいんだ。

先日の【注意書きはどんなに詳しく、分かりやすく、大きく書いても読まない人はまったく読まない】から連なる話で。確かに指摘されている通り、それこそ一人一人にヘッドホンを確実に手渡し、エンドレスで注意事項を聞かせたところで「聞いてなかった」「説明が不十分だ」と言う人はいるだろう、的な感はある。説明する側に明らかな不足があったのか、聞き手側の能力の問題だからそこは割り切る必要があるのか。その境界線をどこに定めるのかが難しい。情報の伝達技術の発展は、この境界線の下側にある「切り捨てる必要がある」側を可視化して目立たせ、境界線を敷き直させようとする効用もあるのかなという気がする。


これは多分に別の話からのものではあるけど、今件でも当てはまるような指摘な気がしてならない。株式投資における損切りの概念とでもいうべきなのだろうか。


時折ニュースなどで「注意書きが十分でなかったから事故が起きた」的な棍棒振り回しをキャスターや記者が語るような場面があるけど、そのたびに「もし本当に指摘されているように大きく分かりやすく書いても、その人は目を通して留意し、その内容に従って行動したのだろうか」と思う。

説明書を用意しても読まずに手を付け、分からなくなったりトラブってから説明書に目を通す、酷いのになるとトラブっても説明書は読まずにメーカーに文句を入れたり人に聞くってのがある。説明書ではなく本体自身に注意書きやらガイダンスが書かれていても、それに従わずにもりもり自己判断で、自分の世界を作って操作する人は絶対にいる。

「自分ルール」を即時に作り上げてそれで行動したり、「どうにかなったってどうにかできるわよ」的な発想のもの。「ここから先は並んでも商品はありません」と注意しても「並んでいればどうにかなるわよ」と強引に並び続ける人とか、よくあるパターン。

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