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日本は4月で年度替わりをするため、教育課程では4月生まれの人は最大で1年近く他の人よりも早く生まれたことになる。それだけ長い期間、他人よりも早く世に生まれて生活をしてきたのだから。大人になってからの1年近くはさほど違いは生じないけれど、子供の時の1年近くは結構大きなものとなる。

結果としてどうしても、4月生まれの人の方が、体力やら学力で優れた相対位置を手に入れることになる。これは確率論としては間違いないけど、統計的にその通りの結果が出ているか否かについては、まだ未検証なので精査をする必要がある(小学生で何月生まれ毎に成績のデータなんてあるのかしら)。

それとは別に、その生まれ月によって生じる差異が評価につながり、評価は自信につながり、経験値も上乗せされる。結果としてますます伸びていく、飛躍していくってのは面白い話ではあるし、納得がいく。子供に得意なことを見つけさせる、自信をつけさせるってのはこういうことなのね、という理解ができる。


某球技におけるあれこれが問題される中で、色々と納得してしまった話。タイムスタンプを見れば分かる通り、ツイートされたのは例の事案より前の話だけど。そして今件はすべての事例に当てはまるというわけじゃないけど、少なからず該当するのではないかな、と。さらにフィジカルな話に限ったものではないけれど。

自分のスキルがある程度自覚できる、さらには他から認識されると、ついその力を振りかざしてしまいたくなる。力に翻弄されるとか、強い力のとりこになるってやつ。物語で妖刀に操られて云々ってのがあるけど、恐らくはそれもこの類の一つなのでは無いかなあ、と思ったり。ともあれ、自分が他人よりも秀でているのが分かると、よほど割り切っていたり思考ベクトルが普通の人と違っていたり、何らかの経験を得ていないと、それを濫用してしまいがちになる。それは好ましい状況では無いので、併せて礼節を教え込まねばならないというもの。

力には同時に制御するものが必要となる。人の場合はそれが礼節に当たる。要は、力を持ったものの暴走を止めるための歯止めが礼節であり、力を持つ者が勝手に見につけるものでは無い、と。


元々ツイッターやFacebookでの「いいね」は好評価、ポジティブな意思表示を意味するものだったけど、現状では単なる覚え書きや既読サイン、さらには相手へのパッシブソナー的なものとしても使われるようになっている。Facebookでは感情表現アイコンを選択肢にして、色々な方向性の意思表示が可能となった。

他方、その意思表示を受ける人には、具体的なメッセージで無くとも何らかのアクションを受けただけでも、確実に評価を受け取れることになる。やれ拡散しろとかリツイートして欲しいという話もあるけど、それはまだステップが上がる、別次元の話。まずはよいものだと思ったら、素直にその声が聴きたい。まぁ、拍手が聴きたいってことだな。


無論実情としては説明する側がつたない、不十分という事例もあり、それに該当するか否かはケースバイケースであるのだけど。指摘されているような事例が多々見受けられるのもまた事実ではある。特に昨今では毎日のように、朝日が昇る時間から時事関連の話において、大の大人がこういうことをやらかしているので、悪い意味での見本となってしまっているのだろうな。ああいうことが許される、あんなことをして自分の都合の良いように誘導することができる、と。

で、説明する側には説明するだけのコストもかかるので、そのことを考えると費用対効果の上で意味があるのかってそろばん勘定をしたくなる。追加のリソースを投入して説明したとして、そのリソース分で相手を理解させるだけのメリットはあるのか。さらに追加リソースの投入で相手が理解できる可能性はどれだけあるのか。ならばそのリソースを他の事に振り分けたり、別の人に理解してもらうために割り当てた方がマシではないか、と。孫氏の兵法でも似たような話はあったよね、競走馬の対決の件で。

新作の情報はSNSで流れてくる記事の見出しや、メーカー公式の生放送などで拾うもので十分に感じる。最近は公式サイトがとても充実しているし、体験版を出すという施作も多い。発売前のこの作品のココが面白いみたいな記事を読んでも、公式サイト以上の情報が得られるものなんてほとんどない。定期的にゲームソフトの発売日カレンダーを見て、欲しいソフトを早めに予約するだけで十分だし、見慣れないタイトルは公式サイトに飛んで内容をざっと確認してから買う

ゲーム業界の流れの一つとして、直接の一次情報を云々するのはメーカー自身がやっているしその方が確証性は高いから、専門誌などの雑誌の一部には二次情報ならではの価値を盛り込んで読み応えのあるものを提示するようになってきた、と。ビジネスモデルとしてそれがそろばん勘定的に成り立つのか否か不安だというのは、それはまさに然り状態。ゲームをコンテンツの一つと見据え、そこから派生した新たなコンテンツとして提供できれば、それはそれで面白いのだけど。その最終形態の一つがゲームをバックボーンとしたラノベとか漫画とか、なのかなとも思ったり。

で、指摘されている通り、昨今においてゲームの公式サイトや情報が充実してるのは、ネットで悪質に歪められて伝わってしまう対策ではある。無論メーカー側にそれなりの意識と体制が整っていないと、アレでナニなものになってしまうけど。分かっているところはしっかりとやっていたりするから頼もしい。米大統領の直接的な情報提供も、概念的には同じものだろう。下手に丸投げすると勝手解釈で間違った認識が公知されてしまうから、だったら確かな情報を直接投げてしまおう。......えーと、不特定多数に情報を分かりやすく簡素に伝えるという、メディアの役割が果たされていないってことでもあるのだな、これ。与えられた仕事しろ、と。


直接対面で口頭にて伝えたり、手紙や電話で連絡するのではなく、電子メールで先生などに連絡が出来るようになった時代。距離感や立場のハードルを考慮せずに情報を投げられるので、ついついフランクな感じでやってしまいがちだし、そもそもそういうのは義務教育で習っていないような気もするし、仕方が無いのだけど。

目上の人への意思伝達はメールに限らず相応の様式というか手続きというかしきたりってのがある。そんなの知らんよ、と言われればそれまでだけど、受け取る側もそうだよね、知らないから仕方が無いよね、で勘弁してくれるとは限らない。

最低限のルールというかマナーの類は知っておくべきだし、実践する必要がある。今件のようなお話もその一つ。何もかしこまることは無く、守るべきところを守ればいいだけの話。


先日ちょいと報じられて問題視された、危険性を伝えたら恐怖を覚えたので責任を取れという話。その話自体は理不尽感を覚えたので続報待ち状態ではあるのだけど(この類の話は多分に全体像が見えていない、話が端折られてわけのわからない内容となってしまっている)、それから連なる話として。

子供に何か社会生活の上で必要な物事を教える際に、そのまま事実をリアルに伝えても分からないってことがある。経験則が無い、薄いから、大人と同様の教え解きではインパクトが大きすぎる可能性もある。自動車を常日頃から見ている人に自動車の走りを見せても何の不思議も無いけれど、江戸時代の人にいきなり自動車を見せたら腰を抜かすってのと同じ(ちょっとオーバーだけど)。

なので子供など経験の浅い人には、色々な例えとか柔らかい表現で疑似体験をさせて学ばせる必要がある。図画工作を幼いうちからさせて、色々な失敗を経験させるってのと発想は同じ。童話が多分に教訓を含んでいるのも、実のところはその教訓を教えるために存在するのであって、順序が逆なのだな。「童話の中に教訓がある」のではなく「教訓のために童話が作られた」という。無論、そのパターンがすべてでは無いけれど。

震災の時に伝承の類は、過去の災害や災厄を後世に伝えるために物語り化したという話をした。それも結局のところ、思惑としてはさほど変わりは無い。多くの人に当時の教訓、戒めを伝えるための方法論の一つ。

それを「怖がるかもしれないから」「トラウマになるから」との理由でシャットダウンしてしまうのは、どうなんだろうか。無論その内容が、現状ではまったく逆の意味、悪しきものを引きずることになっているとか、弊害を生み出すのなら話は別だけど(教訓の通りに行動すると犯罪になるとか、ね)。いわゆる無菌室状態での過保護教育を思い出す。

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