コミュニケーションの最近のブログ記事


人は皆個性を持った人間であり、RPGならばパラメーターもばらばらで一人一人が違った値を持っている。同じ人間ではあるけど、同じ事ができる、可能性を持っているというわけじゃない。もしそうなら誰もかれもベンジョンソンみたいに早走りができるし、マイケルジャクソンのようにステキな歌唱力とダンス能力を持てるし、チャップリンのような演技力を持てることになる。

でも実際にはそうじゃない。けれど、成功してある程度高みに上った人は、この「自分ができるのだから他人もできるはず」という罠に陥ってしまうことがある。同じ人間なんだし、自分と同じようなことがなぜできないのか、と考え、その理由として努力が足りない、無茶をしていないと断定してしまう。それって「成功していない」と怒っているのと同じ無茶ぶりなのに、ね。


「お気持ちヤクザ」的な言い回しがぴたりと来る事例が多々見受けられるように認識される今日この頃。具体例としてのお話が挙がったので覚え書き。今件は状況的にも何気ない言葉のキャッチボールそのものが楽しみであることは容易に理解ができるのに、勝手深読みをしたり、相手の気持ちを自分の想像で肉付けして、具体的な意味合いを持たせ、その期待に応えないと「思いやりが無い」とか「優しさが感じられない」となじられる。なんか理不尽だよな、と。


E3にソニーが参加しないという話が出て、ちょいと色々と物議をかもしている。業績が落ちたとか喧嘩をしたとかじゃなく、時代の流れが変わってきたかな、それを象徴する出来事の一つとして位置づけられそうだ、という感じ。

あまりにもざっくばらんすぎるのだけど、情報の発信ルートが新聞とかテレビといったメディアのみで制限されていて、受信できる選択肢もそれらからしかできないという感じで限られていた昔は、一か所に集約してメディアにまとめて取得してもらって、一度に流してもらった方が、何かと便利だった。時間制の報道規制云々ってのも、結局まとめて取材してもらって、一気に流してもらうってことがあったから。

けれど情報の発信の手段が多様化し、消費者サイドが受信するルートも多元化したため、わざわざ新聞などのメディアに取材されやすいような場を設けていちどきに取材してもらうって必要性は薄れている。下手をすると有名なユーチューバーに取材をしてもらった方が、展示会に参加するよりも有益だってそろばん勘定が成り立つかもしれない。

情報のやり取りの多様化というか環境の変化が生じた結果としての、今回のソニーの決断ではないかな。既存の方法を継続する方が楽だけど、効用が減退している、新しい選択肢の方がより有益だと判断できるのなら、そちらにシフトするのは何も悪い話じゃない。

短文しか理解できない人は昔からいる

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ツイッターは全角140文字(SMSと同じ仕様)が上限のブログの集合体的なコミュニケーションツールであるため、それを多用している人達は短文しか理解できないとの話があるとの指摘。そんな話はいくつか聞いてはいるけど、昔からSMSはあったんだし、その前の時代としては従来型携帯電話のメールでのやりとりとか、さらにはPHSでの暗号めいた文面でのキャッチボールとか併せ考えると、ツイッターで短文のみの思考云々ってのは随分と無理がある。

その類のメディアによって短文のみ理解できる層が云々というよりは、元々そういう類の層が一定率存在し、それが可視化されやすくなっただけの話。......と考えた方が道理は通りやすい。残念ながらこの類の話は統計を取ることができないので、実際としてどうなんだろうかってのは検証ができないのだけど。

今回指摘されているような事例は、文章を早く読むコツだとか速読の手法としても薦められている方法論。重要そうなキーワードをさくっと目に留め、それのみで脳内において主旨をまとめ上げてしまう。この類の話って結構色々な場面で隠れて存在していて、調査結果においても変な値が出てきた時に設問を見ると、ああこの言い回しだと誤解釈した人が一定数居るなってのがあからさまに分かる場合がある。いくら注意書きで「こうでは無いですよ」と書いても、その間違いをしてしまう人ってのはいるんだよね。「単語だけ把握して,あとから意味を補完してるのだろうって推測」ってのは、間違いのケースのすべてでは無いけど、多分にありうる話ではある。


アイディアノートとかフラッシュアイディアの箇条書きとか、色々と自分の頭の中に「こうしてみたい」「これはどうだろう」というアイディアは想起されるけど、それを体現化できるかどうかはまた別の話だったりする。そのアイディアが本当にフラッシュアイディア的な、単なる思い付きレベルのこともあれば、結構なレベルにまで掘り下げた仕様書的なものにまで達していたりすることもあり、構想の度合いは人それぞれ、対象アイディア次第ではあるけど。

だけれどそれが自分の手元の覚書とか、脳内に留まったものであるのなら、ぶっちゃけた話としてさほど意味は無い。それを具体的な形で実現化し、第三者の目に触れられるようにしないと、存在意義はなさなかったりする。要は想像だけなら世界征服も瞬時に出来ちゃうよ、的なものだ。

なので、自分の中でのアイディアの創出スピードが実体現化スピードを上回り、創出したアイディアを体現化しきることは難しいなあと思ったら、どんどんアイディアを公開して作ってほしいとアピールするのも一つの手。某有名漫画家も脳内のアイディアを体現化しきれなかったとかいう逸話があったような気もする。

自分が思っていた、アイディアを他人が体現化した場合、それはそれで悔しかったりすることもあるけど(特に想像以上のものができたり評価されたりした場合)、何も生み出されずに埋もれていくよりはマシではないかな、という感はある。無論、勝手にアイディアを盗まれたり、「自分で一から考えました」とか主張されたら話は別だけど。


某テレビ番組で「ハンドメイドの作品の原価はこんなちょっぴり、大儲けできるよ」的な話をやらかしたものだから、いわゆる原価厨的な界隈が降ってわいたという話。まぁ、昔からこの類のは一定数存在するのだけど、テレビというバズ力の大きなものが喧伝すると、より浸透してしまうのも否定できない。洗脳というか、扇動と何ら変わりないからねえ。

語っている側の心境がどこにあるのかはケースバイケース。本当にそんなことを考えているのかもしれないし、そういう話が合ったから持ち出してみて、値切ることが出来ればラッキーといった形でやってみなけりゃ損だ的な感覚なのだろう。1円パチンコどころかゼロ円パチンコ的なもの。

ただ指摘の通り、作り手側の投入リソースを考慮できないような人に対しては、その行動がたとえ「物は試しに、通ったらラッキー」的な考えによるものだったとしても、相手にするだけ無駄な気がする。

そういう価値基準・判断をするということは、その時点だけでは無く、今後自分と何らかの取引をする時にも、それを持ち出す可能性があるから。売買の状況でも話をするだけ無駄で、お引き取り下さいでオシマイ。下手に説明とか説教とか教示をしたとしても、リソースの浪費となるのがオチだろうし、第一そういう対応をする義務はどこにも無い。

お一人様の食事、別にいいじゃん的な

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一昔前は一人で食事を摂ることがどちらかと言えば否定的な意味合いで表現される、意味を持つことが多かったけど、「孤独のグルメ」の登場でそのイメージが随分と払拭された感はある。けれど今でも他人とテーブルを囲んで食べるのが当然で、一人で食べるのは邪悪のスタイルだ、非難されるべきだというニュアンスで語られることが多い。特に大衆向けの食の場ではそういう雰囲気がある。

当方も一人暮らしだから基本的にはおひとり様の食事となるわけで、諸般の事情で外食はあまり無いのだけど、それでもする場合は当然おひとり様でいただくことになる。でも引け目は感じていないし、笑われる筋合いはない。

他人に迷惑をかけているわけでは無いのだから、とやかく言われる理由は無い。そういうスタイルを望んでいるのに、なぜ指を指して笑う必要があるのか。

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