都合の良い物語を創って事実であるように伝えるのは「報道」とは別だよね

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先日の日テレにおけるテロップ界隈の話といい(成された訂正でも再び問題を起こしている始末)、【国語能力が欠けているのか、それとも作為によるものなのか...昨今の切抜き・編集「報道」を見て】で指摘した編集周りの件といい、放送法関連の担当大臣の発言周りといい、特に新聞やテレビに係わる報道のミスリード、しかも単なるミスならば多方面に生じるはずのものが、ある特定の方向性を持った形で次々と指摘されている感はある。報道が実態を伝えるのではなく、実態が生じたことのアンテナ程度にしか使えなくなったとしたら、その存在意義は著しく低下したと見ても良いのだけど。

特にテレビに関しては社会的価値や倫理観周りで、自由さを維持する必要がある、規律的なところは自主的に守られているから問題ない云々的な話もある中で、次々と「やらかし」が出てくるわけで、指摘の通り「良い子だから文句は言うなと保護者がかばっている最中に、次々と子供自身は悪戯をしでかす」状態。


......という状況下で、また切り貼り問題が生じているとの話。関連してあげた麻生総理(当時)の話はすでに7年前のことなんだけど、そこからちっとも変っていない。国語能力があるなしの問題では無く、意図的に誤認・誤解釈させるような思惑で編集させていると見た方が道理は通るし、さもなくば「本当に君はばかだな」((C)ドラえもん)と指摘されてもぐうの音は出ない。


対象となるテーマは少々別のものになるけれど、指摘されている「変な使命感で批判精神」ってのは昨今の界隈事案と共通するものの気がする。【御嶽山報道、「遺族の人となりの紹介」って必要なの?】【新聞やテレビの「報道」は物語の創作ではないのだけど、創作して当然との認識が主流なのかもしれない】でも言及しているけれど、報道側の心の内に持つ「社会正義」が多分によじれてしまっていて、それを核心的利益とし、そのためには「報道」というツールを最大限悪用しても許される、大義名分化できると考えているのではないかな。本来第一義的に存在する「事実を正しく、分かりやすく伝える」がどこかに行っちゃってしまっている。

欲しいのは事実であり、正しく分かりやすい情報(プレス)。伝える側の主観や主張(オピニオン)は二の次。ぶっちゃけると、「報道」として与えられた仕事をしろってことなんだけどね。

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このページは、不破雷蔵が2016年3月15日 07:56に書いた記事です。

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