新聞やテレビの「報道」は物語の創作ではないのだけど、創作して当然との認識が主流なのかもしれない

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「私たちは正義」や「人々の心に刻み込まねばならない」的な話が新聞やテレビの報道界隈、ジャーナリストなどから当然至極、心情レベル的なものとして平然と語られる状況を見るに、本来の「正しいことを不特定多数に伝える」という報道の責務がどこか彼方へ吹き飛んでいる感が多分にある。さらにそれを神が与えもうた当然の権利であると認識し、それが出来ないのは世の中の大義に反するから、すべての事柄や常識、倫理を超越した絶対的な権限、優位性を持つと考えているような印象もある。

テレビ放送にしても、本来は現場の本当のありよう、関係方面の研究者の地道な努力とそこから見出された成果を伝えるのが責務ではあるのだけど、不特定多数に周知するツールを持っている&語られている内容はすべて事実だとの認識が強いとの立ち位置を利用......というか無意識のうちに振り回し、本来伝えられるべき情報を印象操作で吹き飛ばしてしまう。創り手側の無知、自称する「正義」など心情や理念などの核心的利益から、そして目立てば・注目されればよいというビジネスのため。

指摘されている通り、目立つように演出を過剰にしたものは、すでに報道の粋を超え、創作の作品となっている。それをあくまでも報道として伝えるのはおかしいのでは。例のプレスとオピニオンとの差異も、これに近しい。


この話でまず首を傾げたのは、「事前検閲になる可能性があるため通常は行わない」というところ。間違いのあるなしを確認するのが「検閲に当たるから許されない」という姿勢が報道界隈にあるのなら、事後における間違いを指摘された場合にしっかりと、少なくとも報道時と同レベルで伝える責務がある。事前チェックは検閲だから許さない、間違いがあってもてへぺろで許されるとか、無視を決め込む。それは報道では無く、単なる言論の暴力でしかない。「報道」という概念を悪用した、悪しき既得権益の濫用と表現されても不思議では無い。

話では記者にすり寄る形で「プレスリリースを事前に公表しておくべき」としているけれど、内部的なプレスリリースでは、絶対にその内容を都合の良いようにつまみ食いされるし、曲解されるし、誤認識される。なので、記者側からすれば不満かもしれないけれど、記者に提供する素材と同じものを即時不特定多数に開示し、容易に誰もが検証できるようにする。

これで報道界隈は本来の責務である「分かりやすく多数の人に説明する」に専念できる。インチキをしたり、不当な内容の記事を書けば、相応に知識や見識のある人が、記事と一次ソースを比較して突っ込みを入れる事ができる。例の「吉田調書」が物凄く良い例。また昨今の「議事録待ち」状態も、結局ここにいきつくことになる。

不特定多数に向けた情報開示のハードルが下がったことで、これまで新聞やテレビなどの記者、報道関係がその権限を用いて自由に濫用していた「事件を、事象を記者が創作し、物語として伝え、それを報道と銘打つ」権限は幕を閉じようとしている。読者が知りたい報道記事は事実であり、記者の思惑や主張や演出では無い。その類は別途枠組みして、別の所で語れば良いまでの話。

【報道される側の一次情報公開のススメ】でも言及しているけど、報道界隈に情報を提供する場合は、まず「相手を信用するな、事実をそのまま伝えると思うな」、そして「不特定多数が事実を検証できるような手立てを講じておけ」が必要不可欠なんだろうね。

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このページは、不破雷蔵が2016年3月 9日 08:01に書いた記事です。

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