「報道」と呼ばれるものの問題点と、「こんな思いで創ってるんだしー」と「こう観てるんだよね」の視聴者とのギャップ

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先日取材を受けたけれどもその結果伝えられた内容が、言われていたこと、実体とは大きな差異があり、話が違うだろうということで取材された側が声を挙げて説明した件。よくよく考えてみると、少し前までは同様な状況に陥っても取材された側の説明・反論をするすべは無かったわけで、この点だけを見ても、従来型マスメディア・報道の立ち位置って昔とは違うんだなあと再認識されせられる。

上の指摘ではしゃーないやん的な表現もされているけれど、極めて懐疑的。どちらかというと半ばあきらめ。その思惑が「報道でもないのに報道めいたモノを扱う「情報番組」という不思議さ」には秘められている。この曖昧って以前何度か説明した、報道制作サイドに多分にエンタメ・バラエティ系の人材が入り混じったのが要因な気がする。【「報道バラエティ」と「ひととなり」と】あたりで説明をしているけれど。あと、ニュース報道とバラエティをごっちゃにして大成功しちゃったニュースステーションが大きなトリガーだったかな。ニュース、報道の規制枠的なものを、バラエティだから関係ないね的な免罪符を用い、視聴者にはニュースのような信憑性で伝える事が出来る。まるでイソップ寓話の「卑怯なコウモリ」みたいな感じ。


指摘の通り、そして記事タイトルにある通り、作り手としては「バラエティなんだしー、別にフェイクだって話盛り盛りしたって、別にいいじゃーん」的な思惑が多分にあるのだろう。一方で「視聴者側はバラエティの面白さで引き寄せられるし、報道のような信頼性で見てくれる。すっげーラッキー」みたいな思惑もあるのだろう。さらには【御嶽山報道、「遺族の人となりの紹介」って必要なの?】【新聞報道の行動原理「人を描け」と三文小説と】で触れている「人に伝えるためにはある程度の非倫理的物事も許される」的な自作の免罪符も影響しているのかもしれない。

ただ一方で、やはり指摘されているけれど、そして以前【「灰色部分は黒じゃないから堂々と歩きまわっていいんだ」でいいのかな】などで言及した、グレーゾーン的な問題じゃないのかな、と自分ではぼんやりと考えている。報道とバラエティの境目を曖昧にして、視聴者側に誤認させる形で作成、伝え、集客するって手法は、本来はやっちゃいけない話に違いない。ただ、もちろんその点について明確な仕切りや決まりは無い。だからグレーゾーンに違いないのだけど、当然グレーゾーンまで自分の取り分ってした方が美味しい目は出来る(現状がまさにそれ)。

ただ、グレーゾーンは本来イレギュラー的に物事が生じた時のバッファみたいなもので、それを前提に行動を続けていると、社会にひずみが生じる。先行する記事にある、ボランティアや善意による行動を前提として決まりを作ってはいけないってのと同じ。そのひずみが現在の、従来型の報道への不信感の高まりの一因であり、将来的にさらなる問題を引き起こしそうな気もするのだけどね。

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このページは、不破雷蔵が2015年6月21日 07:59に書いた記事です。

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