新聞報道の行動原理「人を描け」と三文小説と

| コメント(0)


以前の御嶽山報道で某社の記者先生が「遺族の人となりの紹介が大切」的な話をしていたのを思い出した件。かの新聞記者に限らず、新聞報道に携わる人の行動原理の一つとしてこれがあるのなら、何となくつじつまが合うし納得がいく。そしてテレビが報道機関であるのに対し新聞が報道機関であるのと同時に言論機関でもあることにも「ああ、そういうことね」と合点がいってしまう。


この行動原理があるから、という前提で数々の問題視されている報道を思い返せば、結構な割合でなぜ問題が起きたのかが読めてくる。報道と言論の比率が、読者が認識しているであろうものと逆転し、言論、主張がメインとなり、その本筋には「人を描け」が貫かれている。だからこそ事実は肉付けされ、さらには曲解、隠ぺい、錯誤を前提とした表記がされる。そしてその類の記事を執筆する記者の多くが誉れ高い立場にあると自覚し、意識高き姿勢を見せる。

そこにはかつての新聞の優位性、不特定多数に文章を、しかも(以前の基準で)スピーディーに伝えることが出来る立場にあるという特別な存在であることが担保となっていたのだろう。見方を変えてみれば、一部分ではあるけれど、毎日のように自分の文章を、人を描く話を数百万人に伝播できるとあれば、そのような姿勢を見せても当然。印税は出ないけれど(笑)、それこそミリオンセラー作家みたいな立場なのだから。

しかし今は状況が大きく変わっている。誰もが毎日のように自分の文章を、不特定多数に伝播できる手段を有してしまった。新聞記者には本来の性質の一つ、専門的な視点で現場を取材して精査し、正しい情報を伝えるという、報道本来の役割がこれまで以上に強く求められるようになったし、それが個性であり長所でありこれまで以上に重点を置かねばならないポイントとなった。何しろもう一つの「人を描く」は取材の行程の中での報道内容としてならいざ知らず、論文的な話は何も特別な価値は無くなってしまったのだから。


本来なら新聞記者は多分に取材で色々な細かい情報を取得し、経験を有し、伝えるだけの機会を持っている。にもかかわらず従来の「人を描く」「言論機関」重視にこだわっていたのでは、世に山ほどある他の記事と比較され相対的な立ち位置を落としてしまうのも仕方がない。他には負けない独自の土俵を持っているのに、自分達が好きだからと勝手にその土俵から降り、不特定多数の人たちとのバトルに興じてしまっている。しかも記述スキルそのものが以前と比べて落ちている雰囲気すらある。

All or Nothingではないけれど、昨今の雰囲気、風潮を見るに、「人を描く」「言論機関」にこだわり続けているからこその、新聞の凋落ではないかな、と思ったりもする。

関連記事             

コメントする

            
Powered by Movable Type 4.27-ja
Garbagenews.com

この記事について

このページは、不破雷蔵が2015年2月28日 06:46に書いた記事です。

ひとつ前の記事は「ちょっと不幸だと見下して、かなり不幸だと同情するのはなんでだろう」です。

次の記事は「三秒クッキング第二弾「爆速餃子」が本当に作成された件について」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

* * * * * * * * * * * * * *


2019年9月

1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30