「報道バラエティ」と「ひととなり」と

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先の御嶽山の噴火における犠牲者に係わる「ひととなり」報道に関して、報道サイドから色々と説明などが成されているけれど、その説明にも色々な疑問が呈されている。その指摘の一つがこれ。要は「余計な話」であり、今件のような被害者サイドのものだけでなく、加害者報道でも同様のリスクが発生しうるというもの。それ、新聞がリソースを割いてやることじゃなく、週刊誌のターンでしょ、みたいな。

この「新聞」と「週刊誌」の境界線、そしてテレビにおけるニュース報道とバラエティ番組の境界線があいまいになっているという指摘は思い返せば色々となるほど感を覚えるところも。


今の報道ステーション、もとのニュースステーションが「報道バラエティ」という形で報道とバラエティをごちゃごちゃにした、そして体面は報道という形の番組を作り、それが大成功を収めてしまったので、その成功体験が忘れられず、他局もそれも追随する形となった......ニュースステーションのあれこれを他所で調べても、また当時の他のニュース番組に係わる動向を確認しても、それを裏付ける話ばかりで、この指摘は多分に的を射ている。このスタイルなら「バラエティ」部分でテレビサイドが浸透させたいことを色々含ませて、しかも外見は「ニュース」、つまり事実のように語ることができ、特典も利用できる。先の記事でも触れた「プレス」と「オピニオン」のごっちゃ煮。看板はニュースで、中身はオピニオンみたいな、羊頭狗肉状態。

この「報道」と「バラエティ」をごっちゃにした話は、朝番組における「新聞早刷りを使ってニュースを披露して、それに関する意味のないコメントで時間を埋める」スタイルにも表れている。で、このスタイルってのも


という次第だったりする。要は電車の中づり広告のテレビ版というところなんだろうし、楽が出来ることには違いないのだけどね。語られるコメントの部分が弊害となるってのは、やはり問題。

やはり金属疲労的な状態に陥っているんだろうなあという実感。昨今次々に問題が出ているのは、結局元からの問題が暴露されているだけに過ぎないと見た方が正しいのかもしれない。

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このページは、不破雷蔵が2014年10月 6日 08:01に書いた記事です。

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