文字、文章は経験や知識の共有化、浸透を実現させる

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インターネットの普及で受け取れる情報がけた違いに増えたことや、現実との境目、境界線のハードルが随分と曖昧になったことで(実況とかね。VRなども然り)、文章などの情報そのものを軽視する傾向が見受けられる。現場第一主義的なものとか、自分が経験した(と主張している)から絶対だとか、実際に足を踏み入れた人は至極の存在だ的なものとか。

現場で得られる情報はあまりにも対象個人に与える影響が大きすぎて、実情の把握を超えた感情が多分なものとなる。その辺りの危険性は以前【出羽守問題とか現場の印象の過度な影響とか「現場優先」の弊害とか】【「現場の声は大切」と「現場からの声が正しいとの保証」と】などで言及した通り。

文字とそれによって構成される文章、それを体現化した書籍ってのは、情報を具象化して客観的に見せるようにできる素晴らしい発明であり、具象化されることで不特定多数に対し情報の共有化も可能となる。しかもそれは距離だけでなく時間を超えることすらできる(一方向に対してのみだけど)。インターネットもその道具の概念の発展型に過ぎない。

ところが昨今ではこれを否定する雰囲気がある。感情論、現場の語り優先、反知性的なものが評価される、自分が理解できないものは全部切って捨てるべきだ。なんじゃそりゃ。

記録の精査とかも同じような感じ。現場偏重主義、生の声重用主義がまかり通って、記録や情報の検証、精査が軽んじられたりいい加減に扱われたり蔑ろにされている感が強いんだよね。

そして現場偏重とか生の声ってのは多分に【「早まった一般化」「過度の一般化」というのだな、あの手法って】でも紹介した「過度の一般化」なる詭弁の手法として使われてしまいがち。いや、意図的に使っているケースもあるのだろう。

何か良い方法は無いのかなあ、と考えることも少なく無いのだけど、なかなか簡単には思いつけないのも事実ではある。

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このページは、不破雷蔵が2018年3月31日 07:58に書いた記事です。

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