出羽守問題とか現場の印象の過度な影響とか「現場優先」の弊害とか

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先日の某所でのお話で思った事を覚え書き代わりとして。現場の声は大切、取材をした人の意見は絶対、リアルでの話は完璧に事実、現地での生の声は何よりも優れている。それは事実のひとつかもしれないけど、あくまでもそれはその情報を発信する人が、完全に善であり中立で公明正大であるとの前提が完全り履行された上での話。

さらに以前も触れたけど、人間の印象によるバイアスってのは結構大きくて、目の前の事象が印象的過ぎて正しい情報として取得できていない可能性がある。過度な受け止め方をしてしまうのだな。自分の想いへの偏向もよくある話。事故現場での目撃証言が、複数の聴取をつき合わせると一致しないってのも多々ある話ではある。

そして取材やらレポートやらと、意図的に現場にいる人は、その意図による偏向のフィルタをはじめから有しており、その上で情報を取得して編集し、発信していることになる。そのような問題性があると指摘されても仕方が無い情報を、完全無垢で否定の全くできない、事実の情報として受け止めるのは、大いに問題があるのだけど、その問題に気がついていないのかなあ、という感を覚えたのが昨日の話。


昨日の話としてもう一つ気になったのが、報道やジャーナリズムにおいて、クレームが怖くて自主規制をせざるを得ない、だからつまらなくなった云々というのがあった。これもよく挙げられる話ではあるのだけど、首を傾げざるを得ない。

一因としては上に挙げたような「これまで言いたい放題だったのが、相互意思疎通ができるようになって反撃を受けるようになったから、それがイヤで自主規制をせざるを得ない、それはダメだ的なことを言っている」ってのもある。

そしてもう一つは自主規制とか言ってるけど、それって都合の良い言い訳だよね、というもの。指摘した通り、自主規制で動きにくくなるというのなら実名報道とか風評加害とか、犯罪の手法を公開するとか、自殺報道関連とか、自主規制をすべきケースが多々あるのに、それはほとんどなされていない。それどころか「報道の自由」「私達記者は正義」などと反発して意図的に規制の声に反している。なぜそれらで出来て、「自主規制をせざるを得ないから云々」というところではできないのか。

要するに、自分達で都合の良い仕切り分けをして、したくないところ、手をつけたくないところは「自主規制で云々」と言い訳をして手を離したに過ぎないのではないか。「だって仕方ないじゃない、自主規制を求められてるんだからさ」という免罪符を振り回して。

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このページは、不破雷蔵が2017年12月13日 07:43に書いた記事です。

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