報道に求められているもの、中の人が勧めようとしているもの

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報道機関とは公正で中立な立場から正しい情報を分かりやすく、素早く大勢の人に伝えることを社会的責務としており、それが可能なだけのツールとノウハウを持っている。だからこそ、その社会全体の便益を維持するためにさまざまな特権や例外を認められている。社会的責務を果たすことこそが存在意義なわけだ。お仕事をしたから対価をいただけるというような、ごく当たり前の関係。

で、今の報道機関はその社会的責務を果たしているのか否か。与えられている特権の濫用が進み、責務がどんどんないがしろになっている感は強い。そし社会的責務を果たしていないのならば、存在意義は無い。

無論人が携わる以上、色々な考えによる影響が生じるから、軸のぶれが生じることはある。しかしそのぶれが、許容できる、意図せず生じてしまう領域を超えていないと誰が主張できようか。


特権の維持と拡大ばかりを求め、社会的責務の遂行は見向きもしない。過去に作られた業績を振り回し、後の世に継続させることより、自らの利にかなうことばかりに熱心となる。まるで「脱成長論」を語る方々のようですらある。

「自分たちは世の常識と異なる行為を許されて当然」ってのは、要するに特権意識、選民意識の類なんだろうな。


この類の流れの理由には色々なものがあるのだろうけど、昔からある程度素質(悪い意味での)はあったのだろう。それが可視化され、さらに情報の性質が変化して加速した感はある。ノブレス・オブリージュの欠片すらないのは、あるいはそれを誤解してドヤ顔してるのは、今やかつて報道に与えられていた権限が分相応になってしまったのだろう。

しかもこの暴走した「権力」は基本的に歯止めが聞かない。【境界線とグレーゾーンと報道の「歯止めなき力は正邪の別なく暴走する」】でも触れた、「歯止めなき力は正邪の別なく暴走する」の言葉の通り。

他方、「権力であることに無自覚」ということは無い。単にその権力を王権神授説のように考え、何にも束縛されない絶対的な力であり、悪にはなり得ないとているだけの話。得てして権力を持つ側は、自らの力を(多分に「悪しきもの」という印象のある、過剰な振る舞いで悪影響を及ぼす)権力とは認識しない。正当な力であり、当然の権利であり、むしろ義務として果たさねばならないといった感じ。


ここ数日目に留まるものだけを挙げても、報道内部の無責任な発言、恣意的な語りがあまりにも多すぎる。個人としての発言ならば、個人の肩書で語れば良い。所属部局の肩書を有した上での発言は、同時にその肩書の責を負うことになる。ましてや公式な媒体のアカウントでの発言となれば......。この気のゆるみというか雑さというか焦り感というか質の低さはいったいどうしたものだろうか。この類の発言が単に居酒屋での酔っぱらいの戯言ではなく、不特定多数に向けた公知であることをちゃんと認識しているのだろうか。

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このページは、不破雷蔵が2017年6月19日 08:06に書いた記事です。

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