公式の発信場所を公私混同するのは報道の退廃の表れなのか、元からだったのか

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映画雑誌『キネマ旬報』の発行で知られる出版社・キネマ旬報社(東京・千代田区)が2017年6月16日、公式ツイッターアカウントの投稿で「ご混乱・誤解を招いてしまいました」としてウェブサイト上でお詫びした。


同社公式ツイッターアカウントが、「テロ等準備罪」を新設する組織犯罪処罰法改正案が成立した6月15日朝、「国会死んだ」「国家権力の暴力を見た」などと投稿したことにインターネット上で批判が集まっていた。


「共謀罪」ではなく「テロ等準備罪」の成立に関して、またぞろ民主主義やら立憲政治がお亡くなりになった云々という与太話はともかくとして。出版や報道を成すのは特にだけど、法人格のツイッターアカウントによる問題発言が確認されている。

文末に「松」と記したことで、その言葉を冠する人の発言だから別にいいよね的な免罪符を発行したと認識しているようだけど、これって以前【公式アカウントで記者のざれごとを流す共同通信】したケースとまったく同じ、公私混同でしかない。

色々と言い訳の類をしているけど、都合の良い時は公式見解や社・媒体の代表意見である的な使い方をしておき、都合の悪い時は「必ずしも会社の公式見解・発表を表するものではありません」とするのはむしが良すぎるとしか評価の仕様が無い。新聞の社説そのものも問題視されているのに、それを普通の記事の中にばらまいているようなもの。あるいは昨今何度となく話に上がる、普段は新聞社所属の肩書を使って関連する話をしたりなどその肩書を利用し、問題があると「無関係です」と主張するようなもの。イソップの卑怯なコウモリの話を想起させる。

ツイッターって独り言みたいなものだよね、との弁明をするかもしれないけど、だったらそれは鍵をかけてから行えばよいまでの話。ツイートでの書き込みはブログと同じなんだから。それを不特定多数に公知させておいて実際に多数の人に閲覧させ、その上で「独り言だから別にいいじゃん」は通用しない。


あるいは今回のような発言は、報道の内部(の一部)に、自分達は社会の木鐸で読者・視聴者は下々であり神のお言葉的な我らの語りを崇拝するがごとく聞くがよい、的な想いがある、選民意識というか上から目線的な意識があるのが見て取れる。

むしろ昔からそんな感じの思惑を持つ人が少なからずいて、昨今は先鋭化されてきたのに加え、可視化されてきた結果、よくわかるようになったということかな。ツイッターのようなものの登場と普及で情報発信しやすい、ハードルが下がったってのは、同時に発信された情報を確認されやすい、多くの人に精査されやすいってことでもあるからね。

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このページは、不破雷蔵が2017年6月17日 07:51に書いた記事です。

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