マスコミの偏重ぶりと悪質な撮り鉄との類似性と

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具体的なツイートは引用しないけど某事案でマスコミの取材陣による悪辣な姿勢が写真などによって暴露されたり、某タレントの薬害事案で色々と過剰な取材とか偏見の強い「報道」があったりしているのを見て。それらの行為がずっと行われているわけじゃないという反論があるのも併せて考えると、確かにその通りではあるのだけど、けれどそのような切り貼り印象付けを常に...

...というとまたファクトチェック侍が来ちゃうから往々にして、行っているのがそのマスコミだよな、という感を覚えたりする。その手法を第三者の個人が用いてマスコミに向けて放っても、それは結局自業自得というか、天唾が戻って来たまでの話ではないかなという感はある。

そして力の観点ではまだまだ差異はあるけど、概念とか仕様とかという観点で、情報の改変が生じている現在では、マスコミの定義とか、区分って誰がどのようにして決めて、それは誰が裏付けをするのかなと考えたりもする。まぁ、力の差異でマスコミ、報道であるのか否かってことを決めてしまうと、発行部数数千部の地方紙はどうなんだとか、地域FMラジオ局はとか、そもそも力の差異でそれを決めていいのかってことになるけどね。

そしてマスコミ勢における点字ブロック妨害をはじめとしたさまざまな狼藉の証拠が挙がるのに既視感を覚え、よく考えたらいわゆる悪質な撮り鉄における(撮り鉄すべてが悪質ってわけでは無いので、念のため)「写真を撮るのに邪魔だから勝手に杭を抜くし木も切るし、場所がいいから私有地でも無断に専有するよ」と同じものだったってことが分かる。まったく同じメンタリティ。俺様が撮りたいから邪魔なものはすべて排除するし、行動はすべて正当化してしまう。

簡便に表現すると「マスコミの狼藉って悪質な撮り鉄のそれと同じだよね」。そしてマスコミはその行為の裏付けとして社会的意義を主張するかもしれないけど、それは自己主張に過ぎないし、それぞれの仕事のためにやってるわけだ。さらに、もしその主張か正しいものだとしても、それと不当・不法・違法行為をしてよいってことは別だよね。ということになる。私達記者は正義だから、何をしても許されるという、無敵カードを勝手に作って振り回しているような状態なんだろうな、と。

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このページは、不破雷蔵が2019年4月 7日 07:45に書いた記事です。

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