学校教育は人生のお試し版的なもの

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アカシックレコードへのアクセス権があるわけじゃないのだから常に最適な選択肢を選べることなどありえず、また異世界転生物じゃないから自分のステータスをゲームのように観ることなどできず、だからこそ色々なものに手を出して自分の可能性をチェックしていく必要がある。まぁ、それが面倒くさいのなら世の中の流れに逆らわずに流されていくのも自由ではあるのだけど。

で、チャレンジする、ゲームならチェックのためのサイコロを振るためには、色々な可能性が秘められている、容易に成長ができる子供の時代が一番。学校ってのはそのための存在ではある。結果のみを見て、あれは要らなかったというのは、よく言う後出しじゃんけんレベルの話でしかない。もちろん、教える側の能力とか姿勢の問題も大きいけれどね。いくら機会が与えられても、教える側がスットコだったら芽が出るどころか腐らせてしまいかねない。


授業はお試しとかキッザニアみたいなもの、とかベストマッチなフレーズ過ぎて脳内が総立ちで大喝采時代到来。そうなんだよね、学校の授業はチェックのためのサイコロ振りの機会でもある。無論、上手くいかない人もいるだろうけどさ。多くの人にたくさんのサイコロ振りをしてもらう、お試しチャレンジをしてもらうための機会提供ってのも、学校の役割ではあるのだな。

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このページは、不破雷蔵が2018年11月26日 07:38に書いた記事です。

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