記者の限界と元々の能力と

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インターネット技術の進歩と普及、特にソーシャルメディアの浸透によって、情報の性質は本質的に変貌を遂げてしまった。さらにスマートフォンの普及により、多くの人がそれを体感でき、利用が可能となっている。可視化という言葉が陳腐化してしまうぐらい、既存の情報関係における内面、実情の曖昧さというかいい加減さが明らかになっているのが昨今。これを情報革命と表現してよいのか否かは微妙なところだけど。

で、報道に限ってみても、その定義自身が今や曖昧になっている(不特定多数に素早く分かりやすく正しい情報を伝達できる。その能力が限られていてそれを操ることができるからこそ、高貴な存在であり、社会的責務を忠実に果たすことが求められているし、その責務の履行が期待されているからこそ、さまざまな特権を得て行使することができる)のは周知の事実ではある。

報道だからこんなことをしてもいい、ならば報道の仕切り分けはどういうもので、その確からしさはどこのだれが保証するのか。5万人のフォロワーがいる人のツイートは5万部の発行部数を持つ新聞と同じような「報道」の立ち位置にあるとの認識は、間違ってないよね、ということになる。

そのような情報を取り巻く環境の変化に伴う境界線の曖昧さってのは、指摘されているような面でもあったりする。元々破綻していた実情が顕著化、露呈化したとも解釈できるのだけど。

特定の人物が多様な方面での記事を書く。確かにそれは無茶っぷり。当方に芸能関係とかスポーツ関係の解説をしろというぐらいに無理がある。新聞やテレビなどの記者でも、特定の方面の担当部局はあるだろうけど、それがあったとしても内部的な仕切り分けはどこまでされているのか。「記者があらゆる問題についての記事を書く」さらには「門外漢がオピニオンを書く」って実情は、すでに新聞などの今のメディア、報道が破綻していると指摘されても否定できない。

中にはその筋の専門家を引っ張ってくればいいとの話もある。それはそれで間違ってはいない、賢い選択ではあるのだけど。その賢い選択をできる記者がどれだけいるのか。門外漢なだけに、暇な、アイドル的な、そして中身はスカスカの、肩書のみな、さらには肩書を悪用するタレント専門家をチョイスするようなものでは無いのか。まぁ、テレビに出てくる「専門家」の過半数は、そんな感じではないかなという気はする。

加えて昨今の記者...というか報道界隈全般に言えることだし、これは反社活動家的な人達の傾向としてもよく見受けられるのだけど。「専門家」の肩書を利用して、記者の思惑通りの解説をする、思惑を同一にする専門家を招集して語らせ、思惑の権威づけ、確証性を偽装する傾向が多々ありますね。さらには心境的にお仲間な人達の支援をするために、そういうことをやらかす場合も多々ある。

まぁ色々と、化けの皮がはがれた...というと表現が恣意的なので、実情が明らかになってきたというのがあるのだろうね。そしてそれを当事者が認識していないから、ますます本質が露呈するばかりとなってしまう、と。

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このページは、不破雷蔵が2018年6月28日 07:59に書いた記事です。

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