「文章を読めない人」は昔から一定率存在したのが可視化されたのか、それとも増長したのか

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「文字は分かるが文章を理解できない人が増えているのではないか?」というテーマがネットで話題になっている。明確な統計がないので推測にならざるを得ないのだが、これは古くて新しい問題と考えられる。昔から読解力に欠ける人が一定数存在していたものの、ネット社会の到来で一気に可視化された可能性が高い。

これは以前にもニュースや掲示板のコメント部分とか、ツイッターなどのソーシャルメディアでのリプライの傾向として取り上げた記憶があるのだけど、いわゆる「言葉は通じるのに話が通じない」「人に意思表示をしているような雰囲気では無く、テレビに向かって独り言を話しているような感覚」の人が目に留まるようになった。

自分の思っている事、意思を表示できる手段が簡易化され、他人への意思表示が容易になるに連れ、今まで見えていなかった、把握できなかった領域が分かるようになった。そういうことなのかもしれない。

例えばお鼻の汚れ取り的なふき取り紙。あれが存在しなかった頃は、鼻の皮膚部分の小さな汚れを気にする人などほとんど無かった。けれどあの紙の登場と、それに伴い「こんなに汚れている、汚れが取れるのですよー」という話が広まり、皆が気にするようになってしまった、的な。

マスコミの実情も似たようなもの。ネットで情報の蓄積や精査が行われない、出来ない状況下では常に一過性の情報をわんこそば的に受け取るだけだから、それに従うだけで過去の整合性との突き詰めもできなかった。それができるようになると、何だか結構デタラメでいい加減だよね、というのがバレてしまった感じ。

過去の状況は精査できないので比較は不可能だけど、恐らくは一定率の割合、そして数で、言葉は理解できても文章がよく理解できない人はいたのだろう。国語の読み取り試験が苦手な人という感じ。それがネットの普及で自由に意思表示と取得が可能となり、そういう人達も世間一般に容易に認識されるようになった。言葉の限りでは普通の人と変わらないので、何だかコミュニケーションの上で変な状況が生じることになる。


他方こういう指摘もあり、否定できないってのもまた事実。容易な、崩された、話ことばのような文章ばかりに目を通していると、普通の文章を読むのに難儀してしまう、理解がし難くなってしまう。日々の閲読はどのようなものでも時間を費やすことから、読解力の訓練となる。その訓練が「短くまとめることへの価値が高まる時代」という前提で構築される短い文章が多分にある中で行われると、本来必要な訓練量が不足してしまう。

長文が読めれば短文も読めるけど、短文しか読めない人は長文を読むのは難しいからねえ。この辺りの話も数量化は困難だけど、解釈として考えれば道理は通るというものだ。

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このページは、不破雷蔵が2018年6月 6日 07:38に書いた記事です。

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