差別用語と取られかねない表現と校閲と

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いわゆる自主規制的な流れの一端を知ることができるお話。単語レベルでそのような解釈もでき得るものに対し、片っ端から警告チェックが入って鬱陶しい、柔らかな表現ならば作業の上で精神的な影響が生じるから止めてほしいとの話。

これ、校閲側の考えがつかみきれなくて。単にそのような単語に対して機械的に反応しているだけなのか、そういう言葉を使う事自体がおこがましいと認識しているのか、これらの言葉を使うとうるさ方が好ましくないとの反応を示して対応が大変なので避けた方が無難だ・リソースの無駄にならないという認識なのか。

機械的反応ならば校閲としての存在意義が疑われるとの判断があるかもしれない。自身の思いとして「使うな、失礼だろ」というのなら職務的権限を濫用したモラハラにもなりうる。外からのクレームが怖いからというのなら書き手よりもそういう界隈の方の声を優先するのかな、という認識ができてしまう。


「差別だと 騒ぎし方が 差別者だ」とは当方がおりを見て使っている言い回しではあるのだけど。まさにそれを思い起こさせる話には違いない。あるいはいつもの必殺技「わたしが差別だと思ったから差別なの」なのだろうか。

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このページは、不破雷蔵が2018年1月17日 07:08に書いた記事です。

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