論文の数や引用数がすべてだとする姿勢はどうだろうか

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物事を評価するのに指標化を行うのは人の知恵に他ならない。数字ならば簡単に比較ができるし、上下も容易に掌握できるし、動向もグラフ化などで分かりやすい。ただしそれは物差しの作り方で変わってくるし、数字化できない部分の評価がないがしろにされかねない。指標は物事を把握するのに必要な指針であるが、同時にそれは一側面でしかない。その指針に物事そのものが振り回されていたのでは困りますよ......

......という話を、ここ数日来話題に登っている、日本の論文数とか引用数に関して思っていたのだけど。大体語ってくれたお方がいたので、覚え書きとして。

例えば飲食店で数を裁くのを優先するあまり、食品の安全性や味わいに懸念が生じたらどうだろうか。作った料理数は数字化されるけど、安全性とか味わいは数字化されない(リスクが体現化すれば話は別だけど)。絶対数が求められていたり、これはここまでやらねばならないという最低限必要なラインが設定されていれば話は別だけど(例えば文筆とか漫画における締切とかね)、そうでない場合においても、指標を押し上げるために他の要素をないがしろにしていないだろうか。


数年前の「成果が出てないから意味が無いので打ち切り」「何年もかけないと完成しないから意味があるのか」「成果を上手く説明できないのならば中止」的な、問答無用で科学を魔女裁判にかけた、数年前の例のアレを思い出させるのだな。

まぁ、指標化に頼った方が簡単だし、責任逃れもできる。「だって数字に従ったまでだもん」。本来の指標化ってのはむしろ逆で、指標化した上でその先を見通し、数字では見いだせない、見出しにくい部分までも推測し、全体像を推し量ることこそが大切であり、指標化の意義ではあるのだけど。目的と手段を入れ替えてしまっては困るのだよね。

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このページは、不破雷蔵が2017年8月13日 07:41に書いた記事です。

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