その場限りの思い付きや方便が通用する演説と、それが通用しないネット時代と

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インターネットが情報の価値を大きく変えた理由はいくつかあるけど、その要素として重要なのが「距離感を無くした」「蓄積が容易になった」「時系列を超えて検索と精査が可能になった」がある。巨大な図書の棚を背景にニヤリとほほ笑む研究者のようなことをしなくても、過去の情報をたどることを容易にさせてくれた。もちろん情報の統括、検索、精査にはそれなりの知識と経験とノウハウが必要なのだけど、かつてのような財力も場所も時間も記憶力も要らず、ハードルは思いっきり下がっている。

かつてのような、情報がつかみどころのないような、ふわふわとした感じで、それっぽいイメージ的なものを覚えている程度で時間が流れていく環境は、すでに無いと言っても良い。

選挙関連の演説ではとりわけその傾向が強いのだけど、演説の類はその場で見聞きした時に印象的な、耳ざわりの良いワードを盛り込み、実のところはあまり意味が無い、さらには嘘八百な内容も多かったりする。要は印象だけで押し通そうとする感じで、ユーチューバーの動画が良い例。その場で一過性の情報取得で、強い印象に残るモノだけでよいという目的なら、それでもよかった。ラップとかヘビメタのようなものも方向性としては近いかな。

以前も指摘したけど、映像系ニュースがネット上で配信される際、その映像で語られた文章がそのままテキスト化されると、実は何も語っていない、あるいは無茶苦茶な日本語だったり間違いばかりだったりすることが少なくない。それと同じ。

でも今ではその手法は通用し難くなっている。記録媒体が多数の人の手元に渡り、再生が容易となり、文字おこしが誰にでもできるようになっている。プロの手によってなされた文字化された内容が、不特定多数の人に容易に渡るようになっている。適当な、いい加減な言葉の盛り合わせでなされた演説や講演の内容は、すぐに精査されツッコミが入り、語り手側の言及の信ぴょう性を左右するようになる。

無論、記憶違いとか解釈の間違い、表現の過ち、思惑の錯誤、状況による判断の差異などで、場面によって語る内容が異なることもある。人だから間違いを犯すことは誰にだってある。けれど、同一の案件に関して、場によってコロコロ内容が変化したり、他の要因が加わらないにも関わらず判断が違っていたりする、要は八方美人だったり虚言癖的な行動性向だったりすると、その人自身の本質が問われることになるのだよね。

あの場ではあれはアリ、べつの場ではあれはナシ、その場でウケが狙えればそれでよい、自分の都合に良ければその場限りのウソを語っても問題はない。昔はともかく、今はそれでは通用しないのだよね。ネタとか作り話のようなものなら話は別だけど。

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このページは、不破雷蔵が2017年6月26日 08:04に書いた記事です。

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