自分が遊ばないゲームを酷評するのと「すっぱいぶどう」は似ている

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世の中に登場するすべてのゲームをプレイすることはかなわないから、当然他人が遊んでいても自分が遊ばない、遊べない作品は多分に出てくる。その作品に他人の意見のみをうのみにしたり、あるいは自分に手が届かない、または手にしないと判断した作品で皆が肯定しているからそれが悔しくて、「つまらない」と表現する層は一定数いる。具体的にどの程度かまでは測定することはかなわないのだけど、色々な掲示板やらブログやらソーシャルメディアの書き込みを読み通したり、アマゾンのコメントを読んでいると、その辺りはすごくよくわかる。さらに遊んではいるのだけど、他人の「面白かった」に共感できず、それが仲間外れにされてしまったような感を覚え、反発的にくそげー扱いしたり、(実のところ自分もそれなりに堪能しているはずなのに)つまらないと切って捨てるケースも少なくない。

その上、自分が「つまらない派」に属したら、周囲にもそれを伝播させて同意を求めたいとの意向を持つ場合も多分にある。これはこの作品はつまらないという自分の判断が間違っていないとの確認をしたいのだろう。仲間意識というか、これもまた認証欲求の一つなのかな。

別にこれは悪いことってわけじゃない。どのような判断をするかは人それぞれであるし、他人が面白いと思ったものを自分も同様に面白いと認識する決まりはない。自分の感性に正直になることは大切なこと(ただしそれを第三者に披露するか否かはまた別の問題。思うことと他人に伝えることはイコールではないのだから)。

イソップ童話に【すっぱい葡萄】なる話がある。

キツネが、たわわに実ったおいしそうなぶどうを見つける。食べようとして跳び上がるが、ぶどうはみな高い所にあり、届かない。何度跳んでも届かず、キツネは怒りと悔しさで、「どうせこんなぶどうは、すっぱくてまずいだろう。誰が食べてやるものか。」と捨て台詞を残して去る。

というもので、詳細はともかくあらすじは誰もが知っている。「手に入れたくてたまらないのに、人・物・地位・階級など、努力しても手が届かない対象がある場合、その対象を「価値がない・低級で自分にふさわしくない」ものとみてあきらめ、心の平安を得る。フロイトの心理学では防衛機制・合理化の例とする」という解説もあるけど、今件で指摘されている「自分が手に入れていない作品を卑下する」ってのは、まさにこの「すっぱいぶどう」に該当するのではないかな、と思った次第。つまりこの類の話は昨日今日に始まったものではないということだね。

            

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この記事について

このページは、不破雷蔵が2017年3月24日 07:42に書いた記事です。

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