ひとむかし前の「個人の情報拡散能力」を考え直してみる

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従来型メディアに携わる人たちの品質、本質の劣化......というよりは元々の質のほどの露呈が相次ぐ昨今。そのメディアが高貴なものとしてもてはやされていたのは、かつては情報を広域に周知しうるツールがそれらに限定されていたのが大きな原因であるとは、以前言及した。それが今ではインターネット、そしてスマートフォンの普及浸透で大きな環境変化が生じている。相対的な優位性が損なわれ、仮面がはがされ、本質が見えてきただけ。それが実情かもしれないということも。

ではその仮面がはがされる前は、個人における情報の周知はどのような状況だったのだろうか。昔を思い返したり、資料をあさってみたりして、ちょいと覚書にしたためてみた。この辺りは本格的にやるのなら、メディア文化論的に切り込むべきなんだろうけど、恐らくその類のはすでに論文化されているはず。


大体ツイートでまとめてあるけれど、インターネット上に書き込みをすることで自分の情報を発信する手立てを個人が持てるようになったのは今世紀に入ってから。例の9.11.の際にブログが大いに注目を集めたので、その前後ぐらいかな(タグを使わなくてもウェブ上にホームページみたいな感じで自分の文章を披露できるってことで大いにもてはやされたとの話)。その後、従来型携帯電話が普及浸透して、より気軽に、機動力の高い文字ベースでの情報発信ができるようになったけど、横の緩やかなつながりは掲示板がメインで、どこかしらアングラという感じは否めなかった。

やはり情報の広域な不特定多数への発散を大いに押し広めたのは、横のつながりを強力にサポートする機能を有するソーシャルメディアの普及浸透と、それと相互的に普及を後押しすることになったスマートフォンの展開によるところが大きいのだろう。

逆に、インターネットがまだ一般に広まっておらず、情報をばーっと広げる手立てとしてもさほど周知されていなかったころ、さらにはそれ以前において、個人が情報を多人数に知らしめる方法論としては何があったかというと、極めて限定されていた、しかも能力的にも限られていたことが分かる。どれぐらいかというと上に示した通りだし、今でも例えばネットを一切使わずに情報を周知させてみる方法を考えればよい。

それだけ情報の扱い方に関する環境は大きく変わってしまった。さらにその情報が蓄積され、検索で容易に過去のものも精査できるようになり、情報そのものの質も大きな変化を遂げている。

報道界隈の中の人による不祥事、質の劣化の露呈が相次ぐのも結局、この情報の取り扱われ方の変化に伴う、社会的相対価値の変質と、情報そのものの性質の変化に関して、認識が絶望的なまでに足りないからなのだろうなあというのが実感。

例えが多分に乱暴だけど、村に一軒しかなく、色々と暴利をむさぼっていた総合雑貨屋が、近所にスーパーやデパートが出来、ネットショッピングも使えるようになり、隣町へも容易に買い物に行けるようになったあとでも、昔と同じような対応をお客に対して行うようなものなのだな。

もちろんそのような雑貨屋にも質の良いもの、時代や環境の変遷に対応していく店もある。今の報道に、どれだけそのような対応ができる人がいるだろうか。

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このページは、不破雷蔵が2016年10月 9日 08:03に書いた記事です。

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