「自分は弱者である」との表明は他者の配慮のために必要かもしれないけど、それを免罪符にしてはいけない

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以前もちらりと触れたかもしれないけれど、最近特に......というか気が付いて思い返してみると以前からあったけれど記憶に留めていなかっただけなのかもしれないけれど。「自分は弱者だから」との看板を振りかざして相手をぶっ叩くような、そんな表現が似合うケースが増えている。まさに言葉通り、自分の立場が弱いことを悪用し、それが免罪符であるかのようなふるまいを見せる。

言われた側、殴られた側は反論したくとも、「弱者だから」と宣言されているので、自分の良心やら第三者の目があるので、何も言い返せずに黙っているしかない。けれどそのようなケースが増えてくると、相手の振る舞いが段々と横暴になってくると、「弱者ってなんだろう」と自問自答をするように。いわゆる「活動家」と自称他称する人達の多分が、自身、あるいは客寄せに「弱者」を使っているのも、違和感、嫌悪感の要因なのだろう。


この「弱者の盾」という言葉は初めて聞いたけど、言い得て妙な表現に違いなく。自分が弱者である事を知らしめるのは、何かの判断をする際に可能か否かのチェックでより厳密な、あとでトラブルが生じないようにする、配慮を願うため。あるいは状況の再説明を省くため。他人の判断の際に役立ててもらうためのもので、他人に何かをやらかした際にその責を逃れるための免罪符じゃない。

この辺り、実は先日も触れたグレーゾーンの考えと近い部分がある。仕方ないよね、と許される、少しぐらいは我慢してもいいかなと思える部分と、例えそうだとしても許されるべきじゃないって部分の仕切り分けが難しい。他方、その仕切り分けの難しさを(意識的か無意識のうちにか)逆手に取り、何をしても許される的な認識が蔓延すると、「それじゃ他の人の不利益ばかりとなるから、もっと厳密に仕切り直そう」ってことになってしまう。

難しい話ではあるのだけど。実際に「弱者の盾」を持った相手に殴られたり、上記にある通り最近では反社会的な行動に使われる事例が増えているので、色々と懸念を有している次第。

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このページは、不破雷蔵が2016年7月 8日 08:06に書いた記事です。

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