小学校のクラス人数と多様性・協調性と

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昨今ちょっと話題に登っている「アフター」話が元ネタ。要は同人誌即売会などのイベントが終わった後の打ち上げに参加するか、誘ってもらえるか、出来るか否かに関して、同じ趣味趣向を持つ人だから年齢差はあまりこだわらずにつながりが出来得る一方で、飛び入り参加は難しいとか、声をかけて輪に入るのを躊躇してしまうとか、声をかけてもらえないので寂しいとか、コミュニケーションの難しさが改めて認識されるという話。

その中で多様性と協調性の話が出てきたのだけど。それに関して一つの指摘。ああ、確かにそういえばそれは十分に理由の一つとしてありえるよね、というもの。

小学生の時期では近所づきあいもいくばくかはあるだろうけど、一日の多分を過ごす事になる学校での、しかも同じクラスでのつながりが一番強い。当然、学校以外のつながりもクラス単位となる。同じ小学校、学年でも、クラスが違えばそれこそ「同じ人類だけど別の国の人」ぐらいの違いが出てくる。小学校の時に、自分の隣のクラスにどのような人がいたか、覚えている人はどれだけいるか、覚えていたとして何人覚えているか。

小学生にとって自分のクラスは、家庭同様に自分が息づいている世界そのものに違いない。


その世界の構成人数が減ってくれば、派閥的なもの、独自性も生まれにくくなる。イレギュラーは弾かれやすい。言葉は悪いけれど、村八分的なものになりやすく、当然子供としてはそれを避けたいので、協調性が育まれやすくなる一方で、多様性は見出されにくくなる。

40人クラスといったら男女それぞれ20人だけど、25人ならば男女で12人かそこら。まとまりやすいけれど、ちょっとずれた考えなどを持つとすぐに弾かれてしまう。イレギュラー的なものが認められにくい。孤立化は小学生自身にとっては「自分の世界の中での大半で、寂しい思いをしなければならない、針のむしろ状態」を意味するので、自分の考えを押し殺して皆に従った方が良いと考えてしまう。それができなければ容易に孤立化する。それを救うような、別の集団・まとまりが出来る人数上の余地が無い。

これが良い子となのか否かは判断に迷うところがあるけれど。「最近の若年層は」と言われる指摘内容の一つに、冒険心が無くなったとか極度の安全思考とか、指示されないと何もしない、自分で行動しない・自分の意見を言わないといった類のものがあるのは、あるいはこの辺りに一因があるのかもしれない。下手に集団と違えることをしたら、容易につまはじきにされることを、小さい時から学んでいるから。


指摘されてみれば確かにその通りで、まとまった人数の子供の姿を見かけるのは、保育所とか運動会のような、何らかの理由で集まっている時ぐらい。プライベートの場で集まっているところを見たことがない。いてもせいぜい4、5人ぐらい。

色々と考えさせられる話には違いない。

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このページは、不破雷蔵が2016年6月15日 07:08に書いた記事です。

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