「弱者だから」を権威として振りかざし叩く道具として使うと......

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ある特定の事案に対して、というわけではないのだけど。社会的共同生活を営む人が弱者に手を差し伸べるのには、社会全体の秩序の維持のためとか、弱者とそうでない人の線引きが明確化されていないからだとか、自身が弱者となった時の保険的役割とか、種全体の維持のための本能的な反応だとか、色々な理由がある。

社会生活の中ではぐくまれた善意とか良心も大きな理由ではあるけれど、ではなぜその善意や良心が生まれたのかと考えると、やはり具体的には直上の理由が正当性を得るものとなる。長い社会生活の中で、それらの意思を持ち実行した方が、結局のところ多くの人がより大きな恩恵を受けられると学習した結果だろう。弱肉強食な社会は社会的・文化的成長は望みにくい。

ただ一方で、弱者が救われるべきとの社会規範・ルールが浸透すると、当然そのルールを悪用・濫用する筋が出てきてしまう。線引きがあいまいな領域の事例や、あるいは全般として水戸光圀公の印籠のような扱われ方がなされると、それを良い事に振りかざしの事例が生じることとなる。

その訴え、弱者は救われねばならないとする社会的規範を逆手に取り、他の人達を虐げる、あるいは関係の無い方面の主張に使われるケースが増えてくると、「濫用される、不当な行使されるぐらいなら、社会全体としては救済の優先順位は下げても良いのでは」との判断が下される可能性が出てくる。

弱者は救うべき。社会全体のために。でもその措置でより多くの人が虐げられたら、弱者となりうる状態となったら。理不尽な行為を受けたら。それは「社会全体のために」との大義名分にかなうものだろうか。そしてさらに、弱者自身では無く、弱者(だから救われるべきとの権威)を用いて他人にさまざまな、そして直接弱者救済とは関係の無い圧迫行為をする人たちが出て来たら。

弱者救済という「万能カード」を手に入れた、あるいは手にした人達を仲間に引き入れた界隈が、政治的策動に走り、間接的には関係があるように見えるけれど直接関係は無い事にまで殴りかかる事例が、昨今よく見受けられるようになったのが、改めて色々と考えさせられるきっかだったのには違いない。先日の「日本●×」で始まる話が好例。また、少し前の「女性の壁」問題も然り。あるいは太平洋戦争界隈の話を持ちだし、いまなお理不尽に負い目を追わせようとするとか。

あまりそのような「弱者手法」が多用されると、叩かれる方は理不尽さを覚え、カードの効力は薄れてしまう。そして一定濃度より薄いものとなると、そのカードを無効にしてしまうような反応、対応に、社会全体の対応が切り替わるかもしれない。

方向性は少々異なるけれど、報道やジャーナリスト界隈、社会学者や憲法学者などの「権威があるように見える肩書」を持つ人達の挙動を観たあとの感想に似ている。肩書は今や単なるチェックポイントの一つでしかなく、その人のありようを逐次精査して、その本質を見極めた上で判断しなければならない。面倒だけれど仕方がない。まがい物が増えてきたのだから。弱者云々に関しても、社会の維持秩序のために欠かせない倫理観に違いないのは事実だけれど、何らかの大きな動きがあった時には、その動きの背景や旗を振る人の内情、行動様式などをしっかりと見極め、さらに本当にそれが直接係わるものなのか否かを精査しなければならないのだろうな。

            

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このページは、不破雷蔵が2016年5月22日 08:26に書いた記事です。

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