「紙の情報は情報の密度が濃く、信頼度も高い」のすさまじいダウト感

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今夏から選挙権を得るAKB48の3人と、ジャーナリストの津田大介さんによる「私たちも投票します」(第2部)の第4回は、メディアとの上手な付き合い方を話し合います。前回は情報の読み解き方を具体例から考えました

......ということで中身そのものは登録しないと読めないのだけど、提起されている言い回し「紙の情報は情報の密度が濃く、信頼度も高い」は以前から何度となく語られている内容であり、良い機会でもあるので一度まとめておくことに。

この言い回し、考え方って結局、インフラとしてのメディアと、掲載されているコンテンツとしてのメディアの理解の取り違えをしていると公知しているのと同じなんだよね。「紙の情報は情報の密度が濃く、信頼度も高い」ってさ。仮にラベリング、肩書との意味での「紙ならば」なら、つまり紙媒体に掲載されているのなら、その中身はどうであろうと、紙に掲載されているだけでフルスロットルで信用できるという意味なら、紙に信頼を置くだけのハードルが用意されているとするのなら、その意義はすでに失われている。

まぁ多分に今においても、新聞や雑誌、書籍などの紙媒体への掲載は一種の権威として見られていること自身は否定しないけれど。

紙であろうとネット上のものであろうと、密度の濃い薄い、信頼度の高低は、その内容いかんによる。紙媒体に掲載されていても密度が薄く、信頼性が欠けているものは山ほどあるし、ウェブ媒体経由の情報でも密度が濃く、信頼性に長けているものは星の数ほどある。何を経由しているのかは、単なるルートの違いに過ぎず、発信元、内容そのものが密度の濃厚、信頼度の高低を左右する。上記にある通り、仮に紙媒体による「箔」「格付け」があるとしても、それは単なる一要素でしかない。

例えば。朝日新聞発の電力関係や医療方面の情報に関して、密度が濃く、信頼度が高いといえるだろうか。


新聞社関連でこの内容的なものが良く語られているけれど、例えば今件のトリガーとなった記事自身がウェブ上に掲載されていることも合わせ、自己矛盾を引き起こしてしまう。

これは繰り返しになるけれど、新聞やテレビなどの信頼性に係わる問題は、それらのインフラ・ツールそのものではなく、それを用いてコンテンツを作る「中の人」の資質や方向性、倫理観にある。新聞・テレビの仕組みそのものが疑問視されているわけではない(旧態依然の部分があるなどの問題は存在するかもしれないけれど、それが直接信頼性と連動するわけではない)。


要はすべてを内包した媒体しかなかった時代から、長所短所を見極めて長所を活かす時代に変わりつつあるということ。昔は他の情報伝達機関と比べ、ネットワーク網を構築した新聞が速かっただけの話。他方、紙媒体がすべて短所ばかりってわけでもない。

「メディア」は「ツール・インフラ」のみを指す場合もあれば、「コンテンツ」まで含んだものを指す事もある。昨今、新聞やテレビなどの4マス界隈で問題視されているのは、コンテンツまで含めた意味での、むしろそのコンテンツそのものとそれを手掛ける人達の問題に他ならない。概念の違いに気が付けば良いのだけど、気が付くような素質があれば、すでに何らかの手立てを講じているはずで......。


※一部内容を差し換えました

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このページは、不破雷蔵が2016年3月28日 07:57に書いた記事です。

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