「マイノリティへの配慮」の意味をもう一度考え直してみる

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特定政党に限った話ではなく、一般論としての「マイノリティ(少数派)への配慮」という言葉に関する考察ということで。以前統計周りで「多数の回答、状況の集計を元にした統計の結果(集計ミスや意図的なデータ改ざん、回答の誘導などは問題外だけど)よりも、個人の主観や周辺の実情を優先するのは、統計に反映された大多数の意見や実態を無視することになる。少数が多数を蹂躙するのと同じだ」という話をしたのだけど、それに近しいものがある。

少数派の意見を勘案し、採用できるものは採用し、すくいあげられる領域を広げるような手立てが必要だということであり、少数派の狼藉を容認したり、少数派の意見を優先して多数派をないがしろにしろという意味では無い......はずなのだけど、いつの間にかそのような「マイノリティへの配慮」が、「マイノリティの意見には絶対に耳を傾けるだけでなく採用し、優先して扱わねばならない」さらには「マイノリティは絶対優勢」的な方向付けが見えている感はある。それって変では無いのかな、と。


「乳母っては」ではなくて「奪っては」というのはさておき。尊重が採用を意味しないってのは非常に重要。昔のソ連のように「発言者自身も合わせ、無かったことにする」というわけではなく、考慮の対象として目を配るということ。そうでないと、「少数の意見を優先採用したとなれば、少数が複数集まって出来る多数は、もっともっと優先採用されねばならないではないか」という矛盾が生じてしまう。そのような話が通るのは、例えば法に抵触するか否かという、上位層での判断基準が働いた場合。

昔の中国のように「対抗勢力は九属抹殺」なんていう野蛮な世界では無いのだから、意見が対立した相手とも共存して社会生活を営む以上、そこには和をもって尊しとなすべき工夫が必要。その工夫の一つが「マイノリティへの配慮」。ただ、その配慮を悪用する悪筋が目立つのが昨今の問題なのだろうね。果たして本当に間違った解釈をしているのか、それとも間違ったふりをして狼藉を働いているのか......どちらにしてもたちの悪い話には違いない。

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このページは、不破雷蔵が2016年3月 3日 07:15に書いた記事です。

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