「報道の自由」の「自由」と自由奔放と、偏向報道と

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直前に報道に絡んでその正確性や技術的な検証周りの話が成されていたのに合わせて、出てきた話。オスプレイに絡んだ報道が非常に良い教材となる事案ではあるのだけど、今でも多数の資料がネット界隈だけでなく紙媒体でも残っている、オスプレイに関する多様な煽動的報道を見るに、あれは果たして一義的な意味での「報道」と同じように扱って、仕切り分けしてもよいのかな、という感はある。

読者や視聴者側の不安感、恐怖心をひたすらあおり、情報不足の隙を付き、錯誤を利用し、「媒体への注目を集める」「叩きたい対象にダメージを与える」という2つの目的を同時に果たす。小説や論説、物語のような創作的お話、オピニオンと、正確性の極めて高い事実を伝えるプレス(本来はこれこそが「報道」)を多分にかきまぜ、まさに核心的利益のために報道と呼ばれるようなツールを濫用する。

ただしそれは「報道」と呼ばれているものが、絶対的な権威と信頼性、さらには多数の者へ利益をもたらす公平・正確さがあるとして公的にも保護されているからこそ与えられている力を、濫用していることに他ならない。市民の平和と安全を守るために、法を順守し、安寧を維持するために武器の使用を許可された警察官や自衛隊員が、その武器を使って強盗やら民間施設への破壊行動を行ったらどうなるか。それと意味的にはほぼ等しい。寅さんだって「それをやっちゃあ、おしめえよ」と嘆き悲しみまくるレベル。

言論の自由、報道の自由、表現の自由は存在する。近代国家としての基本的権利であり、憲法でも保証されている。だからこそ、「媒体への注目を集める」「叩きたい対象にダメージを与える」という核心的利益のためにそのような煽動的、情報の悪用をした上での伝達・公知活動は(具体的に法的な抵触行為をしない限り)は最大限尊重されるべき。街中で「それでも地球は動かない、宇宙は廻っている」と主張しても、各種条例や法令に抵触しない限り、自由に行える。しかし同時に、社会の公器として、不特定多数に正しい情報を偏見なく伝える公共財として、保護される資格は保持しえるのか否かとなると、首を傾げざるを得ない。

要は、公共財として各種法令で手厚く保護される対象としての、義務的用件を果たしているか否かということ。「①公金・法的特約による保護恩恵の付与」「②公金・法令の保護、特別な恩恵を与えることはしないが、法的抵触はしない限り制限は加えない」「③法などで取り締まる」はそれぞれ別なわけ。

①と②を同じものと考える筋があるけれど、あるいは意図的に説明して誤解釈させているのかもしれないけれど、別物であることを認識しておくべきではある。

そして一連の「オスプレイ報道」に絡んだ各報道界隈、そしてジャーナリストと呼ばれる方々の行動は、良い煽動報道の教材として積極果敢に保全しておくべきではあるし、事あるたびに具体例として例示されるほどの典型的事例にも違いない。

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このページは、不破雷蔵が2016年3月 3日 07:37に書いた記事です。

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