報道が むしろ他人を 萎縮させ

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改行の都合で少々見難い図式となってしまったけれど、先日の【「例え話は避けるべき」と本当に求められているものと】から続く形の、報道界隈で語られている「自分達が萎縮するじゃないか」的な話に関する素朴な疑問、というか感想。

書かれていることですべてほぼ完結してしまっているのだけど、事実上報道界隈自身が他の者に対する「言葉狩り」的なものをやっているのと同じような状態となりつつあるのだよね。例え話でも、引用でも、その言葉自身を語ってしまうと、多様な解釈や編集を行い、さもそれが主文であり重要視しているものであり本音であるような伝え方をされてしまう。印象操作的なものもある。

「その言葉自身を使わなければ良いではないか」とする意見もあるだろうけど、言葉狩りそのものじゃんってのに加え、どの部分までが使ってよい言葉なのか良くない言葉なのか、その線引きは誰が決めるのかな。結果としてむしろ、報道が周囲を萎縮させてしまっているともいえる。

昨今では議事録や生の映像などで、その切り貼りが後に事実ではないと否定されるケースも増えて来たけれど、それでもなお、その切り貼りや印象操作が否定されることは滅多にない。いつの間にか「それはそうだけど、実際語られている部分もそれなりにアレじゃん」的な話にすり替えられていたり、「そのような解釈をする人もいるよね」という少数意見と差し替えられていたり、さらには「聞き手が理解できないような話をするのが悪い。このような解釈をされても当然だ」と逆切れされる。

「報道が萎縮する」周りの話はかえって、「報道が委縮させている」ことを改めて認識させる良い機会となったのかもしれない。

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このページは、不破雷蔵が2016年2月22日 08:03に書いた記事です。

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