情報源を隠すことの大切さと、一次ソースを読み手が確認できるか否かの大切さ

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報道周りの話として、情報源の秘匿の重要性ってのがある。これは情報を報道に提供したことで、その人が不利な扱いを受けないように、情報源に関しては極力第三者の公知では露出しないことにするというもの。「この話を俺が話したってのがバレたら仕事を首になるので黙っているしかないな」「私がしゃべったことがわかったら命が危ない」って状況で、語り手側が誰かを特定できないようにすることで、情報そのものを報じることができる、報道上の原則のようなもの。

ところが、今世紀、特にこの十年ばかりの間に、インターネットの普及をはじめとした「情報」の取扱にかかわる大きな変化が生じた結果、報道される情報を受け取る不特定多数のサイドでも、情報のソースを精査したり、内容を吟味し直す事が可能になった。それと共に、報道から語られる情報、特にその秘匿原則でカバーされている「関係筋」「一部関係者」による語りが、報道側の妄言であったり、存在しない関係者のものだったり、あるいは実在する人ではあるのだけど語られている内容が別物だったり、解釈が語り手のものとはまったく別物だったりする、一言でまとめると「デタラメ」、以前流行った言い回しなら「非実在関係者」であるケースが多々見つかるようになった。

そして、あるいは最近の話ではなく、昔から同じようなことが行われていて、ばれ始めたのが最近の話だっただけ、なのかもしれない。

今や「関係筋」「一部関係者」なる、一次ソースのぼやかし的な情報は、大よそ何らかの形で疑問符をつけざるを得ないものとして認識せざるを得なくなった。加え、その「関係筋」が意図的に流したフェイクや情報戦的なモノの可能性もある。つまり、「関係筋」が語ったという行動そのものは事実であるけれど、その語った内容が事実であるか否かは別であるってこと(これ、誤解しやすいけれど注意しなきゃならない、大切な話)。一連の某タレントグループの事案が、非常に良い例となったよね。

2ちゃんねるでよく交わされた「一次ソースを出せ」を、従来のメディアへも求めねばならなくなったのは、由々しき状況ではあるけれど、同時にそれを求めることが読み手において可能になった現状は、メディア全体のかたちが変わりつつあることを再確認させられる。

新聞やテレビなどのニュースにタグ付けが出来るのならば、「関係筋」「一部関係者」なる情報源の話には「不確か」「要情報源精査」的なタグをつけるべきなのかもしれない。また、特定の関係者、当事者が語ったことがすべて事実であるとみなしてしまう風潮も、気を付けねばならない。関係者なる人物がすべて正しいことを語っている保証は無く、語った事はすべて事実だとしても、語られていない大切な物事がある可能性は否定できない。さらに本人は事実だと思って語っている内容が、単に認識違いでしかなかったって事も多分にある(事故現場の目撃証言とか、戦時中の体験談のように印象が強いもの&長時間経過したものでは、間違いはよくある)。

本来はこの辺りまでしっかりと吟味した上で、ミスリードを極力防ぎ、正しい情報を公知していくのが、報道の責務ではあるのだけどね。煽動第一、視聴率・購買数第一、特定勢力への打撃第一ならば、でまとめサイト(悪質系のまとめサイト)と本質的に何ら変わる所は無い。

一方的に情報を垂れ流す構造だった昔ならともかく、相互互換的に情報のやり取りが配信・受信側で可能となり、受信側が精査も容易にできるように今となっては、「関係筋」「一部関係者」的な情報をもとにした報道ってのも、根本的にスタイルを考え直す必要があるのかもしれない。

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このページは、不破雷蔵が2016年1月25日 08:06に書いた記事です。

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