「年功序列制」で昇格の保証をすることで後続教育の余裕を持たせてくれたのかもしれない

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若年層への教育訓練の軽視、人材育成の優先順位を下げる方向性、それが継続されることで生じる後継者不足や人材(人財)の不足感。タイミング的には1990年代後半辺り、バブル崩壊前後かな、ぐらいから声高に叫ばれた(数字にすぐに表せる、短期的なリターンのある)成果主義と、年功序列制への猛烈な否定的見識が遠因の一つだったのかなあ、という気はする。

手元に資料がもう残っていないので詳細を調べることはできないのだけど、新聞の解説記事か何かで、成果第一主義が社内に浸透し、すぐに成果が出ない、それどころか時間を浪費するのに等しい後輩や新人への教育はお座なりにされるようになった、これが中長期的には人材の枯渇を招きかねないとの論説があるのを読み、なるほど感を覚えたのが結構前の話。

もちろん世の中すべてがその方向性にあるわけではないけれど、多分の動きとしてその流れに逆らわなかった感は強い。自分の首を切られる可能性があるのなら、余計な新人教育にリソースを割かず、自分の成果になるような自身の仕事を優先するのは道理ではある。それに教育ってのはどのようなものでも、具体的な成果は見えにくいし、しかも時間がかかる。誰も手をつけたくないのも理解は出来る。でもそれは中長期的には自身の首を絞めてしまう。

成果主義ってのは一見効率が良いように見えるれけど、あちこちにひずみをもたらす事になる。要は現在あるリソースの最有効活用法を見出すものであり、その後の事までは考えていない。種もみを植える事に評価が割り振らなければ、種もみまで使って料理を作った方が「より多くの料理を作りました」と高評価が得られるって感じ。

だから指揮官的な立場にある人は、あるいは制度の上で、教育に対するメリットをしっかりと作り上げておかねばならない。上の例なら、種もみを植えてちゃんと育てる作業をしたら、その種もみで料理を作ったのと同じ評価をする、とかね。

その意味では「年功序列制」ってのは、新人教育などの教育方面へのリソースの割り振りの余裕を与える、一定の余裕というか遊びの部分の意味もあったのかもしれない。だから仮に年功序列制の撤廃と成果主義を導入するのなら、同時に(成果の数量化が難しい)教育への明確な評価システムを創り上げる必要があったんだろうなあ、と。

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このページは、不破雷蔵が2016年1月23日 08:33に書いた記事です。

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