状況に合わせた教育システムの変化と、「寺子屋+道場」の合理性と

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昔と比べて習得すべき事柄が累乗的に増えて、さらに情操教育も保護者から丸投げ的な感が強くなったのでは、今の教育システムでは相当に無理っぽいという感は否めない。さらに教員サイドでも色々と内部的機構で無理がたたっていて、そのひずみが大きく露呈化されつつある。校内暴力云々の激化からゆとり教育にシフトした際の、教育の仕組みに生じたひずみの修正方法が明後日方向だったのがまずかったのかなあ、という気はするけれど。

で、すべてがすべてではないのだけど、ここまで複雑化した以上、色々と割り切った形で効率を求めるというのも一つの手ではあるってことで、興味深い指摘。今必要でない、比較論として劣っていたとしても、後でまた必要になった時に系譜が途絶えていたらあら大変ってことにもなるのだけど、全部が全部、すべて温存するほどの体力があるとも思えない。むしろその温存している部分で害悪を生み出しているのなら、それはそれで問題。


学校への集約は現在ではメリットよりもデメリットの方が大きい。特に私塾におけるコスト換算と、その発想から導き出される極論としての「寺子屋+道場」なる答えは、ちょっと既存の発想には無かった切り口で、ああなるほど感が。もちろん現状のシステムなら平均値のあるものを大量に生成(というと語弊があるけれど)することには向いているけれど、詰め込む情報、求めるべきものが増えすぎて、種類が増加しすぎて、それらも合わせてすべてを平均化しなきゃならなくなった結果、全体値がどんどん下がってしまっている。

無論この発想がすべて正しいってわけでは無く、そしてこの仕組みでは当然今まで以上に教育機会に関して差異が生じることになる。また、多種多様なものへの接触機会の用意ってのは、当人あるいは周辺関係者が気が付いていなかった可能性を目覚めさせる可能性も秘めている。また、子供の道筋を多分にかじ取りする選択者となる保護者のスキル次第では、これまで以上に失敗となる結果を見出してしまうかもしれない。ただ、少なくとも現状のようなひずみ、軋み、不合理的なものは軽減されるに違いない。

どちらか一方のみが良くてあとは全部だめではなく、良い所取りをしていくのがベターなのかな。今回語られたような選択制、効率の良い教育システムってのは応用部分で私的に選択させるとして、公の部分は本当の基礎部分に集約するとか......

......ってそれ、まさに義務教育とその後の任意教育部分そのものなんですが。そこまで立ち返る必要があるってことかな。

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このページは、不破雷蔵が2015年10月24日 08:47に書いた記事です。

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