「何でも言えること」は「何でも言わねばならない」を意味しない

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先日ちょいと触れた「ソーシャルメディアの類は公開性のある場なのだから、酒場での酔っぱらいの戯言的なものを書き記すと、そのくだまいたような内容を渋谷のオーロラビジョンで大披露したのと同じとなりかねない」的な話とつながりがある......というか同系列の話かな。

ソーシャルメディア上での発言はロックをかけない限り、誰にでも閲覧できる。まぁこれはサイトでもブログでも掲示板でも同じなんだけど、より他人に伝播しやすい仕組みが盛り込まれているので、一度転がり出すとどんどんあちこちに広まっていく。で、その仕組み・構造から、利用者すべてが超強力な武器を持ったと認識することもできる。相手が読むか否かは別として、超有名人や政治家、さらには海外の殿上人的な相手にも、自分の意志を投げることができる。もしかすると自分の何気ない一言が万人単位の人に読まれ、賛美を浴びるかもしれない。アメリカンドリームならぬソーシャルメディアドリーム的な話も出て来るかも。

で、それ自身は非常に面白い、興味深い時代の幕開け的な話に違いないのだけど、同時に新たな概念としての自制心も必要になる。それが指摘されている「手に入れた能力をフルに使わねばならない義務はない」ということ。武器を持つと使いたくなる、発言する機会があればどうしても発言したくなる。気持ちは大いにわかる。美味しいお菓子を買いだめすると、一日一個と決めているはずなのに、ついつい二個三個と食べてしまうようなもの。

でも、だからこそ、自制の力が必要になる。今手に入れた力は、もしかすると自分の手にはあまる部分もあるかもしれない。振り回した刀に振り回される事態は避けたいもの。さらに自分が振り回した刀は、第三者の目にも留まってしまう。本来地の部分、それこそ居酒屋のクダまき的なレベルでしか出していない内情を、不特定多数の目にさらしてしまう事になりかねない。暑いからといってパンツ一丁で室内を歩き回るのはありえるけれど、その姿形を学校や会社でやっているのと同じようなもの。

結局の所、手にした力を上手く使いこなせるかいなか、機会を精査してほどよく使いこなせるか否かは、普段のコミュニケーション能力がものを言うようになる。ネットだからフランクでいいじゃん? と自己ルールを振りかざす人もいるかもしれないけれど、その自己ルールは他人にも適用されるとは限らないのだからね。

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この記事について

このページは、不破雷蔵が2015年7月15日 07:01に書いた記事です。

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