「善意でやってるから正当化される、正しい」だなんてとんでもない

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直前に具体例が挙げられているんだけどそれはさておくとして。以前にも「肩書は語られている内容の正当性、確からしさの担保にはほとんどならない」的な話をしたけれど、それと連なるようなお話。語り手やら行為者が善意でやっているので、それはすべて正しいと本人自身、その周辺に居る人が主張することがある。一見するとああそうかと思えてしまうような場合もあるけれど、ちょいと考えればそれが道理としておかしいのはすぐに分かる。

例えば「僕は君に分かってほしくて殴ったんだ」ってのは、単なるDVでしかない。パワーハラスメントなども同じ。当事者が陶酔のあまりにそのロジックに陥るのならまだしも(無論よい話では無い)、第三者がそれを盾に正当化してしまう場合が多いので、タチが悪い。善意の行動がすべて正当化されるのなら、今頃世界は何かしらの宗教で統一されてしまっている。善意で悪を成す、ということも良くある話。

このパターンって「善意」に限った話では無い。「反骨の人だから」「自費で頑張ってるから」「業界(企業)から追われたから」「少数派だから」「正義を語っているから」皆同じ。それが正当性を、確からしさを担保することにはならない。 

また良くあるパターンとしては「元OB・OGが語る会社の悪行や問題点はすべて実在する、語っていることは正しい」というものもある。告発者が語る●×の真実ってのが良く目に留まるけど、その内容が事実であるという担保は何もない。でもなぜか、多くの人は鵜呑みにしてしまう。その方がドラマチックで脳内に容易にイメージできるから。分かりやすいから。

だけれど、何度となく繰り返し語っている通り、分かりやすいものが正しいとは限らない。あまりにもストンと腑に落ちる、理解しやすいものは、逆に一度引いて全体像を見直す必要があるのだろう。

ともあれ、一見すると内容を裏付けるような条件付けの中には、往々にして裏付けとはほど遠いものがある。ぱっと見聞きで頷いてしまう事も多いので、注意しなきゃいけないことに違いは無い。

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このページは、不破雷蔵が2015年7月 1日 07:11に書いた記事です。

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