従来の報道関係者がにわか評論家や思想家もどきに走るという指摘

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先日の【現在の「報道」と、その手段を手に入れた「不特定多数の人たち」との違い】に係わる後日談的な話。一次情報特異性・独占性が薄れてきている昨今、従来の報道に携わる人たちは今まで以上に情報の集約・精査・解説、そして正しい論評が求められている実情に対し、見事なまでに斜め上的な状況で力量を発揮しているケースが多々見られることを「記者がにわか評論家や思想家もどきに走ってしまう」と評している。あるいは元々そんな感じの質が実態で、評価の上で比較対象出来る存在が増え、その検証が容易になったので「正体見たり」的なだけなのかもしれないけれど。


いわゆる集団的知性、集合知というもので、ツイッター上で色々と投げ合いをしていくうちに正解を導き出した話はよく見聞きする。最近では親戚が残した謎の暗号解明や、例の非存在小学四年生の非存在たる理由の解明とかね。2ちゃんねるでも一部掲示板で似たような動きも良く見受けられる。

ただしこれはあくまでも性善説で、一定の悪意ある集団の手によって状況は容易に悪質な方向にコントロールされる懸念が多分にある(震災後における「御用リスト」をはじめとした各種「お騒がせ集団」的な話もあるし、それこそ国レベルで自国を底上げし他国を陥れるようなことをしでかしている方々も近くにいる。またいわゆる「火消し」的なウェブ上の情報コントロールをビジネスとする会社も少なくないけれど、それも見方を変えれば集合知の悪用ともいえる)。

ともあれそのような状況が容易に構築される環境が浸透している昨今において、記者が評論家になろうとしても、むしろ自らの個性を引き出そうとするあまり「にわか評論家や思想家もどき」に走ってしまうのは仕方がないのかなあ、という気もする。むしろ本質は「記者がにわか評論家や思想家もどき」にこそあり、取材や記者本来の責務による事実報道もまた、その手段の一つにしか過ぎない......と考えた方が道理は通りやすい事例も結構あるのが悲しいところだけど。

記者や掲載するコーナー、場所によるけれど、メディアとしての新聞と、同人誌と、機関紙の区別がつかないような内容のもの。報道関係者と論説家と、居酒屋でくだまいている酔っ払いの方と。区別がつかないケースって増えてきてるよね。これもまた、単に可視化の結果なのかもしれないけどさ。

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このページは、不破雷蔵が2015年3月 8日 08:34に書いた記事です。

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