「文化人」という言葉が劣化する時代、いや劣化「した」なのかな?

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先行するお話、ナニな感じの経済学者の方々のところでも触れているけれど、特に最近時節柄ということもあり、この類の話をよく見聞きするようになった。この二、三週の間では、映像クリエイター系、中でも映画方面で特に多く見られる。それと、大学周りのうち、社会学方面の専門家の肩書を有する方々(秋葉原が云々ってのもその方面だったかな)。

タイトルにある「文化人」との言葉全体が劣化する云々ってのは幾分語弊があるけれど、少なくとも当方の中では、他の用語、例えばジャーナリストやNPOと同じように、以前抱いていた「光り輝く」「無条件で尊敬すべき」「何だかかっこよくて敬愛する対象」「威厳がある」ような印象は、剥げ落ちつつあるのは間違いない。特にツイッターのツイートで非常に残念な内容のものが回ってきて、そのプロフィールを見ると「監督」「教授」「~業(士)」等の肩書を抱いており、関連する事象や作品が結構知られているものだと、思いっきり残念度ゲージが振り切れる。

で、その文化人、知識人、有識者に関する「残念さ」を分析しているのだけど、これが結構納得がいく。


雑誌やテレビ、新聞、ラジオなどの従来型メディアで「文化人」が語り、その力を発揮した場合、その多くは一方向のものとなり、無視、拒否、反論はありえない。連載企画なりを持て場視聴者の反論を受けることもあるだろうけど、それも番組の中で行われるのであって、よほどのことが無い限り文化人側は保護されるので、安心できる。

ところがネットの場合は、しっかりと反応が把握できてしまう。無視されればアクセスは無く、反論の場があるソーシャルメディア上では、おかしな内容にはどんどんツッコミが入る。知名度が高いのだから、なおさら。中には焦りを覚えてしまい、素を晒して、さらに痛手を受けることになる。居酒屋での戯言のつもりで語ったのかもしれないけど、ネット上でのやり取りは、公開討論会と同じ。不特定多数に閲覧され、記録として残り検索されて何度でも検証の対象となる。

大本の実力が確かなものであれば、このような状況でも自分を見失わず、むしろ力量を発揮して、さらなる「パワー」を得て影響力を高めるに違いない。そうでなければ......というところ。いずれにしても、本質的なものが見えただけなのであり、「自分のパワーが減衰している」ように感じたのなら、その解釈自身が間違いで、元々その減衰した後のパワーしかなかったことになる。これまでは過去のルールや仕組みに守られ、飾られ、力を上げ底されていただけの話。

要は


思いっきりぶっちゃけるとこんな感じになるのかな。

当方が「がっかりした」対象となった人たちも、あるいは元々そのがっかり先のレベルでしかなかったのかもしれない。そう考えると、ほんのちょっぴりだけど、仕方ないよね、とあきらめもつくというものだ。

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このページは、不破雷蔵が2014年12月14日 08:27に書いた記事です。

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