新聞にとってコラムは自社の教養、社説は知性の顔である

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以前から何度となく新聞の社説は「社の総説」であるのだから、新聞社全体の意見であり、そこを社内のうらぶれた、窓際族的な、電波ゆんゆんな人の落書き帖的なものとするのはいかがなものか、あるいはそれを「言論の自由」とするなら、それには相応の責が求められるのであり、それすら果たさないのでは新聞社は「自由」と「自由奔放無責任」を取り違えているだけの狼藉者の集団でしかないという話をしている。

今件の「新聞にとってコラムは自社の教養、社説は知性の顔」という指摘は、一刀両断的ではあるし、指摘フレーズとしてはドンピシャリでジグソーパズルの足りなかったピースががっつりと埋まった時のような爽快感すら覚える。

相応の公知力があり社会の公器を自称し、さらには日常生活に欠かせない存在とアッピールしている者が、このような話を垂れ流しているのはどういうことなのだろう。

新聞社にとって記事は、情報は売り物である。その売り物の品質が問われるような事態が多々生じても、知らぬ存ぜぬどころか「これは自分達の権利である」とドヤるのは、商売人としても、社会の公器としても存在意義があるのだろうか。

あるいはまさに、その通りなのかもしれない。つまり各新聞社のコラムからその新聞の教養、社説から知性が推し量れるということになる。それぞれの新聞社の大変良いリトマス試験紙になるのだろう。

各新聞社のコラムと社説を毎日抽出し、その内容を論評評価し、各新聞社の品質をチェックするコーナーを作ると、とてもとても良いものができそうな気がするんだけど、どうだろうか。それもまた「報道」という解釈で、問題はクリアできる気がする。新聞社自身は報道の対象にならないという特権など、どこにも無いからね。

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このページは、不破雷蔵が2018年11月19日 07:56に書いた記事です。

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