選択肢が増えれば一つ一つの選択肢を選ぶ人は減り、時間は短くなる

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先日の某新聞社での地震にかかわる報道内容への疑問指摘批判に対し、ウザイ黙ってろ雑音だ的な反論が、よりによって同じ報道界隈の現役の人から複数挙げられ、それがまた不特定多数に広まっている状況を見て。

これは以前から何度と無く語っている感もあるのだけど、情報を伝えてくれるルートが新聞やテレビのような特定少数だった時には比較検証する手段も無く、妄信的に信じ込むしか選択肢が無かった。けれど今ではインターネットで不特定多数による双方向の、多方面での検証が行えるようになり、逐次ツッコミやらチェックが入ったりする(それらもまた間違いの可能性があるのは否定しない)。

で、新しいルートを得られた昨今では、状況の判断としては指摘の通り、新聞やらテレビとて情報伝達の一手段でしかなく、そこには神秘性やら絶対性やら正義の類はまったく存在しない。そういうものがあると喧伝があっても、それは自身が権威づけのために自己主張しているに過ぎない。アニメの悪の集団が「我等こそ正義であり絶対である」と主張しているようなもの。秘密結社アクロスみたいなものだ。

そして新しい情報ルートとの比較が行われる事で、これまでの情報ルートが実のところ、内容がすかすかだったことが判明したってのもある。新装開店した料理店に入って、今までの料理店での食事について、なんだ、あんな水増しした料理を食わされていたのか、と気が付く次第。ああ、これって要は東西冷戦時代が終わった後に、共産主義時代のあれこれを再検証するような状況と同じだわな。


情報取得の選択肢が増えれば、既存の選択肢に割り当てられる期待値は減る。ましてや若年層は最初から新しい選択肢に触れる機会が多いから、既存の選択肢へのウェイトは低くなり、選択から除外する傾向が強くなる。時代の過渡期というやつだ。物心ついた時からスマホやタブレット型端末に触れている子供は、PHSやガラケーには見向きもしない。固定電話など見たこともないかもしれないし、ダイヤル式の電話のかけ方など分からないだろう。公衆電話も謎のアイテムにしか見えないかも。


報道、特に新聞やテレビ界隈の人達における、「私達記者は正義、がんばる」に代表されるような、自身への絶対的な権威感、異様なまでの裏付けの無い正当化、傲慢さは、指摘されている通り、かつての古き良き時代をそのまま引きずっているのだろうなという気もする。あえてそういうふりをしてかまってちゃんぶりを演出する、炎上商法をしているという可能性もあるけど、むしろそれよりは素でああいう行動を続けている、自らが絶対的に正しくて世の中の変化はおかしなものであるという、時代錯誤的な状態にあると見た方が、スマートに理解は出来る気がする。

ある意味時代に取り残されている、可愛そうな存在ではあるのだけど。それがまだ相応の力をもってあちこちに悪影響を及ぼしているので、始末に負えないってのが現状では無いのかな。

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このページは、不破雷蔵が2018年7月 3日 07:38に書いた記事です。

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