コラムやエッセイの品質とか確からしさとか

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雑誌とか週刊誌とかに掲載されている、連載の埋め草のような、読み物のような、雑談のような文章のコラムとかエッセイとか。時間つぶしにはぴったりで、表現を変えれば随筆とか戯言とすればいいのかなというもの。

ただあれって、活字として紙媒体に掲載されていて商業誌のコンテンツとして提供されているってことで、それだけで権威があり、正しいものという認識があった。それこそ「UFOが攻めて来るぞ」的なものですら。ましてや現状をそれっぽく語ったものであればなおさら。今でもどんな駄文な内容のものでも、活字化されて新聞や雑誌掲載のようなものであれば、信ぴょう性が高いと誤認しちゃうでしょ? それがもっとパワーを持っていた。

けれど今は(具体的にざくっと仕切り分けがされたわけでは無く、少しずつ、曖昧な感じで浸透した感じ)昔のようないい加減さでは通用しなくなっている。情報の質が大きく変化して、ウェブ上に最初から掲載され、あるいは転載され、不特定多数の目に触れるようになった。該当方面の専門家に読まれ、ツッコミが入るかもしれない。しかも一対一のツッコミでは無く、不特定多数からのツッコミとなり、しかもそのツッコミが公開されるので、さらに多方面からの問題提起がされる。いい加減なことを書いていると「商業誌で、確からしさがあるような形態の場で、そんないい加減なことを書いてよいのか」と非難を浴びる。

これってコラムやエッセイに限った話では無く、それと立ち位置が近い新聞の社説、さらには新聞そのものやテレビなどの従来型メディア全体にも言えること。かつては上から目線で一方的に情報を流して反論は許さない的な状態だったのが、同一高度の目線で、しかも自由に反論を受け、その反論の様子も不特定多数にさらされるようになった。さらにそれらの情報は蓄積され、容易に検証される。


過去に書かれたいい加減なコラムの内容が悪影響を与えている、あるいはそのスタイルを踏襲し続けている昔堅気のコラムニストがいまだに...のどちらなのかは読み取りがたいけど、どちらも正解な気がする。


結局は指摘されているように、文章も含めた情報の性質が大きく変化したってのが大きい。今でもコラムやエッセイは自由に書ける。昔のようないい加減な、適当な内容だってかまわない。ただし掲載された場所や書き手の立ち位置により、相応の責任や情報の開示が求められる。適当なことを事実であるかのように語れば、それなりの対応が求められることになる。

環境が変わればそれに応じた対応が必要、出来なければひずみが生じ、パージされかねない状態になる。いわゆるOSのアップデートが必要って話と本質的には同じだし、それが出来ずに実情との齟齬を生じているのが、今の一部専門家・有識者の暴走的な実態の露呈とか、報道界隈の無茶ぶりなのかな、とも思ったりする。

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このページは、不破雷蔵が2018年6月18日 06:39に書いた記事です。

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