「誰でも書ける文章」こそが至極なのかも

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すべての場合において正しいわけでも無ければ、どのような人にでも当てはまるわけでもないのだけど。この考え方は一理ありということで。誰にでもすらりと書けそうな、くせのない平然とした、個性の無い文章ってのは、見方を変えれば多くの人に受け入れられやすいものであり、それは分かりやすいものに他ならない、と。

つまりくせのあるもの、アクが強いものほど受け手にとってはハードルが高くなる。料理ならば大衆食堂で何も考えずに注文できそうなラーメンやカレーに該当するのかな。それがそこそこしっかりとして何度と無く食べられる、的な。あるいは居酒屋のお通しで好まれるようなものとか。

これって例えば新聞とかテレビのような、不特定多数に向けて発信する、専門的な知識が無くても取得できるようにしなきゃならないメディアでは、必要不可欠なスキルでもある。でも最近は特に、その辺りが上手くできてないな、というよりそれ自身を理解していないな、という感は強い。

「誰にでも書けると思わせるような平素な文章」で「伝えたいことをしっかりと正しく含めていく文章」ってのは、簡単なようでいて難しい。概要的なものならいざ知らず...。方法論も併せ、試行錯誤は続く次第ではある。バーチャルユーチューバーによるお話とか、会話形式のスタイルとかも、その発想による方法論の模索の一つでは無いかな、とも思ったりするのだけど。あるいはツイートによる情報伝達も発想としては近いものがあるかな。

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このページは、不破雷蔵が2018年6月 4日 07:37に書いた記事です。

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