シェアの気持ちと権利の境界線と報道の定義

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先日のオリンピックでの選手たちの活躍をツイッターのタイムライン上で見聞きしながら思ったことと大体重なるお話。自分の心のうちから湧き上がる感情を表現したい、他の誰かに伝えたいという思いはごく普通の衝動に違いない。その手法として画像キャプチャが用いられている。

他方、先日も某所で指摘の記事が挙げられていたけど、テレビ番組の画像をデータとして取り込んでそのままアップするのは、権利的にはアウト判定を受けてしまうのが現状。テレビに映っている画面を物理的にスマホなどのカメラで撮影してそれを使うのはグレーラインというところか。

権利の尊重と利便性とのせめぎ合い。例の不法アップロードサイトの話が思い返される。厳密にはあちらは利益を得るための行為であり、内情的には別物なのだけど。


YouTubeの公式サイトで説明されているフェアユースの概念によれば、国によって仕切り分けは異なるけれど、「米国では、解説、批評、研究、教育、ニュース報道での使用はフェアユースと見なされる場合があります」とのこと。日本ではどうなのだろう。

尖閣ビデオ流出事件の時にも言及したけど、報道各社はあの動画に関して、アップロード主本人に、さらにはそこから容易に想起できるであろう動画の本来の著作者である政府に対し、それを利用して放送電波に流してよいとの許可を得た上で使ったのだろうか。それとも「報道だから」という葵の紋所を用いたのだろうか。報道という大義名分があれば、権利云々はすっ飛ばしても良いのだろうか。

では「報道」とは何だろうか。不特定多数に向けた情報発信を意味するものならば、今では誰もがそれを行う道具を有していることになる。法人格でないとダメ? 免許が無いといけない? それらは「報道」を何らかの形で明文化したことになるけど、報道の概念を文面にて明確に仕切り分けをして定義してもよいものだろうか、これは報道、あれは報道じゃないとしてもよいものか。

欧米ではジャーナリストが個人ベースで情報発信を成し、報道としての役割を果たしている事例はいくらでもある。既存のテレビ局や新聞以外の情報発信は「報道」としては許されないとするお話は筋が通らない。それはまさに悪しき既得権益の濫用。

「報道だからアレはアリ」となると、昔はともかく今ではすべての人がそれを行える権利を有することになる。今の報道媒体の界隈で行われている、既存権益と自認しているであろう、自らによる権利の勝手解釈が、自分達の首を絞めていることに、どこまで気がついているのか。

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このページは、不破雷蔵が2018年2月18日 07:51に書いた記事です。

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