勉強という名の武具は使う場面が来てその大切さを実感する

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定期的に湧き出てくる、義務教育も併せた学校での勉学は日常生活に必要ない、いやある論。結局「ない」とするご意見は一生のうちで学んだことを使う機会が無いように思っているだけに過ぎない。無意識に成される無数の選択、判断の中で、これまでの知識経験がパラメータとして影響を与えているから、具体的に「あ、これ進研ゼミでやったところだ!」みたいに具体的に分かる機会など滅多にない。

リソースが限定されているのなら、そしてある程度未来が見越せるのなら、取捨選択も可能だろう。でもそれはほとんど無理。なので、学校での知識経験は軽んじちゃいけない。得た知識や経験は、その場ですぐに役立つ、頼りになるとは限らないのだから。

その観点では今件のように、実社会と具体的に接することができる、学生時代のアルバイトは、社会勉強という観点だけでなく、今やっている勉強の意味、有益さを認識できる機会を得られるという意味でも、重要なのかもしれない。もっとも鈍い人は、そのような機会を与えられてなお、理解できないものだけど。こればかりは仕方が無い。


震災以降は特に深く感じていることではあるのだけど。教養、知識、論理的な考え方。それらはコンパスであり海図でありGPSのようなもの。それら無くしてどうやって航海ができようか、的な。役に立たないと言っている人は、役に立つ機会に遭遇していない、気がついていない、あるいはできるほどの立場に無かったのだろうな。

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このページは、不破雷蔵が2017年11月27日 06:33に書いた記事です。

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