「目的のためには手段を選ばぬ」はテロリズムと同等

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目的のためには手段を選ばぬ、たとえその手段が倫理的に問題があろうと、規定やルール、さらには法律に反していたとしても、周囲に迷惑をかけたとしても、自分が良しとする目的のためには手段はすべて正当化されるべきだ。最近よく目に留めるようになった主張ではあるけれど、これって単なる反社会活動家、テロリズムと変わらないのだよね。

今件では上記にある通り、かつてそのような反社会活動家、テロリスト達のことを追求していた人までが、手段の正当化の声を挙げていて、思いっきり残念さを覚えざるを得ない。

これって昨年問題視された「日本●ね」を肯定する界隈と同じ考え方に他ならない。「日本●ね」を肯定した方々は、「「日本」が概念的なものだから」「大義のためのものだから」と主張したけれど。「日本」は例えば日本国という特定対象足り得るし、日本人を対象としたものだと解釈することもできる。そして大義は明確な定義はできず語り手側の思惑でどうにでもなる。

それを肯定するのなら、例えば「新聞●ね」もありになるのだが、それはいいのだろうか? 先日話題に上った「朝日新聞~」とて、特定の新聞社ではなく概念的なものだと主張されたら、少なくとも「日本●ね」を肯定した人は反論ができなくなる。

言霊論的に解釈すれば「●ね」とはまさに呪詛でしかない。それを肯定する時点で、人として成してはならないことであるという、大人として基本的な部分ができていないのは、どうしたものだろうか。

ゲームのキャラクタなどを対象に「●ね」などと子供が語ると、そういうことを口にしてはいけませんと保護者だけでなく大人が説教したものだけど。それをよりによって大人が、子供の話を盾にして肯定する事が、道徳的な観点だけでも、どれほど矛盾し、おかしな話であるか。

「日本●ね」も今回の不法行為も、メディア関係者、専門家も一部で肯定していることが、誠に残念でならない。自らの目的のためには手段も選ばない、それはまさにテロリズムの肯定でしかないというのに。

            

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このページは、不破雷蔵が2017年11月26日 07:19に書いた記事です。

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