デモの存在理由とか

| コメント(0)


ツイッター日本支社前での例のデモ的なもの。ステークスホルダーの一員としては色々とツッコミたいところではあるけど、多分に時間の無駄にしかならないので最小限の指摘をした上で生温かい目でモードに突入。で、指摘のされている通り、今件に限らず、行動側が「デモ」と自称しているものの本質が変わっているのかなあ、という感はある。

「デモ」ってのはデモンストレーションの略で、元々は自らの考えを不特定多数にアピールするためのもの。多数に情報を周知する手段が限られていた時代では有効な手立てだったに違いない。チラシとかチリ紙交換のトラックと同じだね。チンドン屋もそうかな。

でも昨今では情報の価値というか存在、性質が大きく変わってしまい、デモの相対的意義が減退しているのは否めない。さらに指摘の通り、行動する側が本質を違えてしまっているのも事実。何というのかな、江戸時代の市内引き回しを自ら望んでやっているような状態ではあるのだよね。優勝パレードとかいうのと全く逆。

今のデモは多分に、構成者の忠誠心の確認とか、組織内の引き締めの意味合いが大きいような感はある。あとは上層幹部の自己満足感の充足のための行為。社内運動会とか遠足とか新人コンパと同じかな。ああ、例の人間ピラミッドがまさにそう。

そして彼らが成した「踏み絵」がまさしくそのまんまだよね、的な。

関連記事             

コメントする

            
Powered by Movable Type 4.27-ja
Garbagenews.com

この記事について

このページは、不破雷蔵が2017年9月11日 07:56に書いた記事です。

ひとつ前の記事は「「安さには作り手の給料の低下」も内包されているから「安さは正義」ならその正義は他の誰かの苦痛とイコールになる」です。

次の記事は「生チョコとプリンな雪見だいふくとか」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

* * * * * * * * * * * * * *


2021年6月

    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30