報道メディアの社会的責務・存在意義と、印象操作と

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印象操作という事象を説明するのは非常に有益な教材の一つとして残しておきたい話。具体的内容は指摘されている通りで、全体の一部をさっくりと切り取ってイメージカットとして用い、それを全体像であるかのような表現をする。写真のキャプションは「安倍首相の街頭演説にプラカードを掲げて抗議する人たち」。以前説明した「碁石入れから黒石だけを取り出して、そこには黒石しかないように見せる」手法だね。

実際の現地の状況を知らずにこの画像とキャプションを目にしたら、どのような印象を抱くだろうか。イメージカット、写真の類は本文の説明用素材であり、それ自身が意味を持つコンテンツではある。それが切り抜きで成されていたのでは。


指摘の通り三権はいずれも国民の意志によってパージをすることが可能となっている。少なくともその仕組みはある。しかしながらマスメディアに対してはそれが無い。何のチェックも試験も資格も無いのに、国民の権利代行を掲げてそれを実行するとしながら、暴走行為を成している現状に、対抗する手立てがない。そもそも「新聞」に限れば、法的に新聞であるか否かの決まりなど無く、自称すればそれでよいという始末。

「報道は権力への監視を責務とする」とドヤ顔で説明する方もいるけれど。今や報道自身が権力を持ち、その行使に邪魔な、気に食わない対象を、監視という名の実力行使でぶん殴るのが実情で。「社会的・政治的公平性・正義」という大義名分で棒を振り回すリベラリズムとも形は似ている。「歯止めなき力は正邪の別なく暴走する」という状態なのだろう。

「ならばマスメディアを使わなければ良い。商売ができなくなるから」との話もある。けれど、機関銃を持つ凶悪犯に対し「撃たせておけばよい。弾はいつか無くなるから」と放置して良いのか否か、それと同じなのだよね。

朝日新聞や毎日新聞、時事通信などがやっている行動が、戦前から戦中にかけての報道姿勢と変わらずで、しかもどこかに強要されてのものではなく、自発的に成しているのは、どのように解釈すればよいのだろう。米国報道も似たような体なので、「報道」という概念的存在の末期現象と見るべきなのかもしれない。

報道も人が携わる物事である以上、意識的に、あるいは無意識に、印象を操作した結果としての情報となる事は仕方がない。こればかりは避けようがない。それこそ数式でのみ、数字のみの表現で行うしかない(株価速報みたいな感じ)。だから創り手による印象の操作が成され、情報にぶれが生じてしまうのは仕方がない。

問題なのはそのぶれが、公明正大が必要不可欠な、存在意義である配信元、例えばテレビや新聞の報道コンテンツにおいて、許容範囲を超えているか否かなのだよね。忘れちゃいけないのだけど、印象もまた、情報に他ならないのだから。

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このページは、不破雷蔵が2017年7月23日 06:58に書いた記事です。

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