当たり前のことが分からない人は指摘されても分からないのかもしれない

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「わかる」という渡哲也氏のコラージュが出てきそうな雰囲気もある、「理解した」という状況。納得した、確認できた、そのロジックを掌握できたなど色々な解釈はあるのだけど、語られているものそのものに同意する、否定はできないということ。ただしそれを自分も同じように好意的に思うか否かは別。「たまごに醤油をかけるのはアリ」は分かる、理解するけど、「たまごに醤油をかけるのは一番美味しい食べた方」には同意できない、的な。

経済関係の話とか科学方面の話とかではよくあるパターンで、数理的、論理的には否定しようのない話であっても、大の大人が理解しない、しようとしない、間違った認識を振りかざすことが多々ある。まぁ、テレビの中で専門家や国会議員までもが似たようなことを堂々として、自分の利を富まそうとしているのだから、「ああ、これはしても良い事なのだな」と学習してしまっているのかもしれないけど。

第三者から見て、常識が分からない状況は多々考えられる。そのロジックがまだ頭の中に無いのか、正しいロジックが入るべきところに間違ったロジックが刻まれてしまっていて、それを正しいと誤認しているのか。あるいはそれをすでに間違いだと自覚しているのだけど、それを認めてしまうと自分の総合的な損得勘定の上でマイナスが計上されるので、間違いだとは認めない方が得だと判断したのか。

これは子供のウソが良い例。花瓶を割ってしまってその惨状が親に見つかったけど、自分が割った事を認めると怒られるとの方程式が頭にあるので、「認める=怒られる」「認めない=ウソをつくことになるけど、怒られない(かもしれない)」とのそろばん勘定がなされ、「近所の野良猫が入ってきて割っちゃったの」とうそをつく。ばれない限りは自分は得をしたことになるので、ウソをつくことが正当化される。

この「自分の損得勘定を最優先事項としてしまい、物事の確からしさの高低は二の次とする」方法論を繰り返して習慣化すると、「平気でうそをつく人たち」となってしまう。そのような人たちには当たり前のことを言っても無駄。

さらにこの手の場合、当たり前、常識に反することでも、大きな声で繰り返し叫べば、だまされてしまう人がいるもの......という事実を意識的に、あるいは無意識のうちに認識している。そこには権威とか知名度の高さが係数として存在している。無名の人が語ってもさほどだまされる人はいないけど、権威や肩書を持つ人が繰り返すと、「なんかえらそうな人が言っているので本当かも」と信じてしまう。公的機関っぽいところ、海外から、長年研究してきた人ならなおさら。

他方、本当に「当たり前」の事はあえて語らないことが多い。まさに「そんなこと常識でしょ?」「なぜ言われなきゃわからないの?」的な話だから。逆に当たり前の事を指摘すると「当たり前のことをわざわざ言うな」と逆切れされるかもしれない(そういう経験、多数あるのだよね、当方は)。だから周知されにくい。

それに当たり前のことをわざわざ説明しても、何か得られるかというと、あまりメリットは無い。「うそをつくのは容易いけれど、それを否定するのには多大なリソースが必要となり、さらにそれを果たしても得るものは無い」ってのと同じ。

かくして当たり前のことはなかなか伝わらないし、今分かっていない人にツッコミを入れても理解はされ難い。難しい話ではある。

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このページは、不破雷蔵が2016年11月25日 08:01に書いた記事です。

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