報道・ジャーナリズムの反社会・反体制行動や「監視」の正当性

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このような話をすると必ず物事をゼロか1かで判断してしまう人がいるのだけど、決してそうではなくて、あくまでもそのような方向性を示す挙動、性格を有するあれこれが増えてきたということで。まぁ、実際、ジャーナリストを自称する人や報道関係者では多分に、この社会・体制への反対姿勢、監視行動という名の実質的な実力行使こそが自分達の責務であり正義であり市民からも支持されるものであると自負するどころか公言する人達も多々見受けられるわけで。

ただそれって、例えばルーマニアのチャウシェクス政権とかロシア革命時の帝政ロシアとか中世の王侯貴族社会で腐敗した末期状態ならともかく、平穏無事な社会環境下の中で、それを多分に振りかざし、ましてや社会の安寧に逆行するような動きを示す、そのような挙動を見せる界隈の後押しをするようでは、本末転倒な気がしてならない。その動きが見えているのも、昨今の報道不審につながっている感は強い。


......という話をしていたら、あずき先生がすっきりする形で要約してくれたので、大体絡めてみる。そもそも論として王政や独裁下、軍事政権下ならともかく(昨今では北朝鮮や中国などが好例)、民主主義の選挙制度によって成立した、民主主義政府においては、指摘の通り、有権者の代理人へのツッコミは一歩間違えるとその有権者自身への否定にもつながる(まぁ、この辺りはよく言われている話ではある)。

実のところ、本家記事でも何度か取り上げている通り、米国のみならず投票制によって政府を構築しているような民主主義国家の大部分においては、新聞やテレビなどの従来型メディアで形成される報道、ジャーナリズムに対する不信感は日本やアジア諸国と比べてはるかに強い。本家記事ではこの傾向について「アジア的価値観によるものでは」との推論を立てたけれど、今件の指摘であらためて考えてみると、投票制度に寄らない政府の設立(期間が長いか否か)も多分に影響しているのではないかな、と思ったりもする。その意味では、やはり日本は特異なのだろう。あるいは、状況に対応できない報道界隈が、そのような価値観を押し付け続けていた、それが最近になってようやく剥離しつつある、のかもしれない。

「既得権益を囲い込む手堅いビジネス」「保守的な商売」のほうに軸足を移している云々ってのは、多分に高齢層向きとか、ベクトルは違うけど新興宗教的なものとか(反原発運動とかEM菌とか江戸しぐさとかエセ医学とか)、あるいは有料メルマガとかその辺りかな。規模は違うけど、発想的には似たようなもの。


で、ジャーナリズムの本質というか、本来あるべき姿ってのも、この考えに近しい。この発想に基づくならば「旧態依然の独裁的な政府や社会体制は情報を隠蔽しがちだから、ジャーナリズムは正しい情報を適切に取得し、判断材料として頒布する」ということで、自然に「悪い政府」と対立することになる。結果と目的と方向性がぐちゃぐちゃになったのが、今の報道の姿の一要因なのかもしれない。今じゃ多分に、情報の正確性を求めるため、むしろ報道ではなく、一次ソースである発信元の政府の議事録や映像資料を精査しなきゃならないという、逆の事態が生じているからねえ。

そこで「素人だから仕方ないじゃん、てへぺろー」でやられたのでは、たまったものではないわけだ。そしてだからこそ、「正確より正義」に違和感を覚えねばならない。なので、先の「私たち記者は正義、がんばる」に、今の報道の危うさを強烈に感じたわけだな。

今の日本の自称ジャーナリズムは、実質的にプロパガンダリズムになっている。その指摘はあながち間違っていないのかもしれない。

            

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このページは、不破雷蔵が2016年9月11日 08:00に書いた記事です。

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