報道が振り回す「読者様の、視聴者様の、国民の声」の正当性

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先日発生して現在24時間テレビの編集が大変なことになっている某事案。その事案そのものに当方は色々と口を挟む必要性は無いし知識も興味も無いのだけど、先日の該当加害者の母親に対する記者会見が、あまりにもひどい内容で、これが今の日本の報道の実態かということを再認識させられたので、ちょいと覚え書き。

指摘されている通り、そしていくつか事実確認もしたけれど、上記で挙げられている「尋常な内容とは思えない」質問をした記者は、その類のやらかしをする性質を本質的に持っているようで、過去にも似たようなことをしでかし、やはり話題に登っている。Wikipediaでも何度となく書かれ、そして編集で消されている形跡があるのを見ると、ああなるほどね、と色々察してしまう。

記者の主張としては「このような話を視聴者は聞きたい、知りたいに違いない。だから我々はその声の、思いの代弁をしているに過ぎない」といった辺りなのだろう。しかし視聴者がそれを求めているか否かを確かめる、裏付けるすべは無い。また「お客が求めているから何をやっても良い」という論調も理屈としてはおかしなものがある。

さらにいえば、視聴者が求めていたものは本当にそれだけなのだろうか。これは以前も言及した記憶があるのだけど、視聴者・読者においても多数の求めているものがあり、当然多分の選択肢があるはず。その中から例えば今件のような質問を選んだのは、やはり記者自身に責任がある。要は新聞記事の「読者の声」を、新聞側が自由に、都合の良い内容を選択しているってのと同じ。

記者が、報道が、「読者様の、視聴者様の、国民の声」という、無敵の棍棒を振り回して周囲を殴りつけ、好き勝手に出来る時代は、すでに終わっている。また、そのような発想を有して権限を振るい、その威力が薄れているからこそ、「私たち記者は正義」と高言して自分達の正当性を周知する機会が増えているのだろう。

あれをもってして「報道」と主張することができるのなら、そのような報道の必要性はどれほどばかりのものか。その矛先がいつひとりひとりに向けられるか、そのリスクを考えれば、おのずから答えは出そうな気がする。「民のため」という大義名分を振りかざして民衆を傷つける暴君を、誰が承認できようか。

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このページは、不破雷蔵が2016年8月27日 07:59に書いた記事です。

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