報道にはもはやネタの提供元ぐらいしか存在意義がないのかもしれない

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先日当方の自宅にも届いた、都知事選の広報資料。各候補者の主張などがずらりと並べられていたけれど、先行取得した人がネットにアップした画像と同じで、コラージュの類では無かったことを確認した上で、あらためて認識をした事柄が。

今都知事選では元やら今やらは別にして複数のジャーナリストの肩書を持つ人が顔を見せている。その人たちの言及や行動や、手元にある資料の内容を目にし読むにつけ、あらためて、これまで自分達が信奉していた(と表現できる)ジャーナリズム、報道なるものが、いかにうつろであやういもので、きわめてもろく、そしていい加減なものだったことが分かる。情報が一過性で一方的で独占的なものだった時代はそれを信じざるを得なかった、信じ込んでしまったけれど、今はもうそうじゃない。言葉は少々キツいかもしれないけれど、子供だましが通用しない時代となっている。


無論これも絶対真理で異なる事例は無いってわけじゃない。けれど、確実にその通りとなるケースは増えている。裏付けを取るとの価値云々にしても、価値を見出せる報道がどれだけあるか。そしてその成果、功績を打ち砕く、吹き飛ばすだけのやらかしがどれだけ増えているか。さらに昨今ではその「話題提供」ですら、報道側がネットから取得するケースも増えている。今や「話題提供の手段『の一つ』」でしかなくなっている。

......となると。先祖返りとの言葉が適切か否か疑問ではあるのだけど。それこそ昔ながらの取材スタイルで、足を運んで自分の目で確かめて、さらに現場の感情や印象に惑わされることなく中立的で客観的な視点から事実をまとめ、さらに事実であるか否かの確認を現在のツールで行うという手法が求められることになる。

現在の環境は報道、ジャーナリスト界隈のさまざまな手立てを容易にし、ハードルを押し下げてくれるけれど、それは同時に今まで高みに居たと思っていた従来のジャーナリストの立場がぐんと押し下げられることをも意味する。スマホが普及し一億総カメラマン・フォトジャーナリストな時代。いや、動画ですら取得可能だ。

自分が乗っていた台座が無くなり、不特定多数と同じ高さとなった時、比較されるのは本人自身の力量。上げ底はすでに無い。

昨今色々とぼろが出ている、失望を覚えさせるケースが増えているのは、この上げ底・台座が無くなって、本来の姿が見えてしまったからなのかもしれない。

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この記事について

このページは、不破雷蔵が2016年7月22日 08:03に書いた記事です。

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