報道、マスコミの「品質保証」と「選択の自由」

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一連の流れをツイッターのタイムラインで目に通して、はっとさせられた話。少々前に番組に対して文句を言われた某芸能人が「いやなら観るな」と発言して物議をかもしたけれど、あの時に覚えた違和感の中身が、今ようやく分かった気がする。

指摘の通り、不特定多数に提供される商品には多分に、品質保証なり商品として提供されるためのガイドラインや規則、業界内の取り決めが存在する。そのハードルを越えてはじめて、競争にもまれて需要者が選択をすることになる。

報道、マスコミとしては多分に「いやなら観るな」を主張するのだろうが、その前の段階の品質保証の類がない。この辺り、「報道の自由」と「言論の自由」をはき違えている感もある。言論の自由は多分にあるけれど相応の義務や責任は生じる。報道として自由を行使する場合、その権限を与えられるために必要な義務のハードルは一層高くなる。多数の人の便益となるからこそ、報道にはさまざまな特権が与えられているのだけれど、それを満たしているか否か、その精査には品質保証と同じようなチェックが欠かせない。

例えばニュース番組でデタラメなり煽動なり特定の組織の意図的かつ悪意あるバッシングを繰り返していたら、それは報道といえるだろうか。公的な保護を与える対象となりうるだろうか。有料駐車場を対価を支払い利用している人がその証明に用いるシールを、対価を支払わない=資格が無い人がそのシールを捏造して使おうとするようなもの。


昔から報道界隈には、商品ならば必ず存在しうるはずの「品質保証」「自由競争」のうち「品質保証」が無かった、あるいは偽装していたのと同じという問題があったのだろう。それが露呈してこなかった、昨今になり大いに注目されるようになってきたのは、上記指摘の通り、あるいはこれまでも何度か指摘していた通り、報道界隈、マスコミが特権的に所有していた力の一つである「不特定多数への情報発信」という手立てが、不特定多数に与えられた、しかもそれぞれの情報が有機的に結びつき相互作用しうる状態になったってのが大きいのではないかな。

単に与える側、与えられる側の関係ならば、与える側は横柄な態度もできるし、それが慣れると当たり前になる。与えられる側は何も疑わずにただ単に取得するだけ。首をかしげるようなことが語られても、自分の周囲に同意を求めることもまれで、それが同意を受けるか否かも分からない。個人ベースの情報発信能力などたかが知れていた(だからこそ雑誌投稿などが大いに流行ったわけだな)。

それが、与えられる側が逆に与える側にもつけるようになり、しかも他人との比較や融合もできるようになった。物凄い雑な例えだけど、集合住宅の家賃において、個々の住民が他の住民との違いを知り得なかったのが(親しい間柄となっても、普通は家賃の話は交わさない)、集合住宅単位でソーシャルメディアを創り上げて意思疎通をするようになったら、それぞれの家賃が微妙に違っていたことが発覚した、みたいな感じ。

また「むしろ情報が溢れる中で、個人では難しい事実精査やデマの駆逐、一過性にさせない情報更新が求められている」ってのは、変化ではなく、むしろこれまでもマスコミが求められていたものだったはず、なんだけどねえ......。

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このページは、不破雷蔵が2016年4月24日 08:32に書いた記事です。

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