プレスとオピニオンをかき混ぜて「報道」する、もう一つの仮説としての理由

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何度となく以前から言及している、プレス(事実、実態)とオピニオン(主義主張、語り手にとっての正義・真実)の境界線を曖昧にした上でプレスとして伝える「報道」が増えている、あるいは元からそんな感じだったのが可視化されるようになっただけという件について。

プレスは皆が注目しやすい、無条件で反応を得やすい。オピニオンは好き嫌いが分かれる、信じてもらえるか疑わしい。「これはこう思います」「これはこういう話との説がある」よりも「これはこうです」との方が注目は集まるし信じてもらえる。駅前などの宗教の勧誘を見れば、その辺りはすぐに分かる。だからこそ、オピニオンを広めたい「報道」界隈の人は、プレスと混ぜたり分からないように偽装する。推理物のドラマに良くある、睡眠薬をご飯や飲み物に混ぜる、アレと同じ。

一方で語り手側、「報道」側が果たしてブレストオピニオンを明確に仕切り分け・認識したうえで混ぜているのかな、という疑問もわいてきた。もしかすると最初から、その類のやらかしをする筋は、自分らのオピニオンをオピニオンでは無くプレスと誤解、さらには確信しているのではないだろうかというもの。

つまり中身は自身の意見であり真実であり正義であって、事実とはまた別のものだけど、当事者にとっては事実であり実態であることから、結果として意見を事実のように伝えてしまう。客観的視点ではオピニオンであるにも関わらず、当人にはプレスを伝えているだけだと確信しているので、罪悪感など何もない。この典型例が先日の【「私達記者は正義。がんばる。」よろしい、それでは君らジャーナリストの正義は 一体どこの誰が保障してくれるのだね?】なわけだ。

そしてこの構造は、悪質な、邪悪な新興宗教と何ら変わりはない。教祖の語られるお話はすべて事実であり絶対的に正しいものだから、これまでの世の中の倫理観や社会性、さらには各種法令すらよりも上位にある。その考えに至れば、教祖のオピニオンは信者にとってプレスと何ら変わりはない。

「私達記者は正義。がんばる」で当方が顕著に覚えた、報道やジャーナリストと自称する人達の一部に見受けられる、一種の薄ら気持ち悪さは、まさにこの狂信的部分にあるのかもしれない。

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このページは、不破雷蔵が2016年3月 6日 08:21に書いた記事です。

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